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2014年12月14日16:35

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平成二十六年の忠臣蔵

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今回の衆院選の投開票日はちょうど赤穂浪士の討ち入りの日と同じで、その歴史的「暗合」はニュースにもなっていた。

ところで、忠臣蔵については、小林秀雄が江藤淳との対談「歴史について」でこんなことを言っている。

「徳川封建主義などと子供みたいなことをいっていては、日本の歴史はわかりません。僕が『忠臣蔵』を柄にもなく書きだしたのは、そこにあるんですよ。『忠臣蔵』ぐらい、文明の先端をいくような事件は、ちょっと世界中にないんですよ。あれは野蛮な、ただの復讐、全く私的な復讐でしょう。それを、おれたちのは喧嘩だ、とちゃんと宣言して、そう言えばつかまるでしょうから黙って、絶対地下運動にして、相手を斬った。そして成功したからパッと公にしたんです。で、切腹するんです。切腹は、公のことですからね。これで終り。つまり、「法律はこうだな、よし、おれは法律に従うよ」といって、連中は死んじゃったんです。そしてやったことは全部私的なことです。私的な道徳です。このことがほんとうにわかったのは、当時、荻生徂徠しかいないんですよ。そういうことが歴史の面白さで、そういうことをやるのが、歴史家なんですよ」(小林秀雄「歴史について」)

小林は、赤穂浪士の討ち入りを、「私的な道徳」を敢行しつつ、しかも「公的な法律」に従った事件として捉え、さらにその復讐の作法を「文明の先端」と評している。私的な復讐のためにテロリズムを行ないつつ、その結果の責任を公的なものとして引き受ける赤穂浪士の姿に、小林は近代的法治国家(デモクラシー)をも超える「文明の先端」を見たのだろうか。

また、丸谷才一は小林秀雄の忠臣蔵論を承けつつ、さらに日本古来の御霊信仰とバフチンのカーニバル論を絡めて、『忠臣蔵とは何か』を書いている。バフチンにあっては、カーニバルは革命のメタファーである。

近代選挙制度は革命の日常化、革命の非暴力化の産物である。しかし暴力の無いところに革命は成立し得るだろうか。近代選挙制度の欺瞞は革命でもないものに革命的な錯覚を与えることにあるのではないか。

ここ数年の日本の政治状況は、民主党の失政でも第三極の迷走でもなく、ましてや自民党の復活でもなく、近代選挙制度の破綻をこそ示しているように思われる。

いざとなったら「討ち入り(テロリズム)」が行なわれかねないという緊張感の欠落した社会で、果たして民衆の側からの「政治へのコミット=カーニバル」は可能だろうか。

小林秀雄の『忠臣蔵』を「文明の先端」とする評言は、そういう近代選挙制度の限界を視野に入れつつ発せられたものだったのではないだろうか。

代議士制とテロリズムをオーヴァーラップさせた映画に『タクシードライバー』があったけど、トラヴィスこそは現代の赤穂浪士といえるだろうか。

――以上、衆院選と忠臣蔵を重ね合わせれば、何かしら面白い文章をでっち上げられるのではないかという安易な目論みで書き始めたエントリーだったけど、さして気の利いた内容にはならなかった。しかし、失敗した文章だからこそ、世間様への嫌がらせ(精神的テロリズム)として、『タクシードライバー』の脚本を書く際にポール・シュレーダーが下敷きにしたドストエフスキーの『地下室の手記』の次の言葉に励まされつつ、このまま投稿。

「まずい警句だが、消すつもりはない。ぴりっとしたやつができそうな気がしていたのだが、いま見ると、われながらあさましく気取って見せただけだったとわかる。だから、わざと消さないでやる!」(ドストエフスキー『地下室の手記』)。
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