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2014年12月11日00:55

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倍音の詩学



「伝説の」と言ってもいいであろう、一部で根強い人気と影響力を誇る映像詩人・佐々木昭一郎の約20年ぶりの新作にして初の劇場用長編映画『ミンヨン 倍音の法則』を、先週の金曜日、岩波ホールへ観に行った。

事前にチェックしたYahoo映画の数少ないレヴューの殆どが酷評で、中には「金返せ」という手厳しいものまであったので、少なからぬ不安とともに神保町へ向かったのだけど、2時間20分の長尺の上映時間が終わったとき、しみじみと「いいものを観た」という静かな感動の余韻のうちにある自分を発見していた。

たしかに、現代のサービス過剰な娯楽映画に感覚を麻痺させられている人が観たら、派手な演出や刺激的な映像や説明過多な台詞や息もつかせぬストーリーテリングがあるわけではない『ミンヨン』は、ただひたすら退屈な映画としか感じられないかもしれない。一方、かつての佐々木昭一郎作品の湛えていた震えるような瑞々しく繊細なリリシズムを期待する往年のファンにも失望を与える作品であったかもしれない。しかし、自分自身の感受性の状態に無反省に安住せず、また先入見抜きに作品そのものに接することのできる人であれば、佐々木昭一郎の作品を観るのがこれが初めてでも(初めての方が?)、深く何かを感じることのできる作品に仕上がっていたように思う。

作品は、日本への留学経験のある二十代の韓国人女性ミンヨンが、モーツァルトのハーモニクス(倍音)に導かれて、夢と現のあわいの中で日本の現在と過去を彷徨うドキュメンタリー・タッチのロードムーヴィーという、基本的には佐々木昭一郎の名を高らしめた『マザー』『さすらい』『夢の島少女』以来の意匠を踏襲している。しかし、それが単なる自己模倣やマンネリズムに終わらず、意識的にセルフ・パロディを展開することで、かつての佐々木作品になかった明るいユーモアを獲得しているように僕は感じた。映画のメインテーマとして、ライトモチーフのように繰り返されるモーツァルトの「ジュピター」の力強く明朗な旋律のお陰もあってか、扱われているテーマ(戦争、原爆)にも関わらず、映画全体のイメージは希望と歓喜に満ちているのである。



これほどまでの、どれほど世界が不条理に満ちていようと一たび与えられたこの生を喜ぼう――という圧倒的な肯定感はかつての佐々木作品にはなかったものである。どれほど不条理に満ちていようと、にもかかわらず、この世界と人生は素晴らしい――というメッセージは、モーツァルト最後の作品「我らが喜びを高らかに告げ」をミンヨンが繰り返し歌うことによっても強く打ち出されている。「我らが喜びを高らかに告げ」は、死を目前にした人間が書いたとは思えないほど明るく、喜びに満ちている。



モーツァルトは、死を目前にして、なぜこれほど明るく喜びに満ちた曲を書いたのか――『ミンヨン』は、この問いへの答えを探し求める映画でもある。

この明るさに、かつての佐々木作品が湛えていた繊細な陰影に満ちたフラジャイルな映像感覚を愛する人は失望するかもしれない。しかしこの明るさに、老齢(今年78歳)に至っての佐々木昭一郎の新たな「達成」を僕は見たく思う。

シェイクスピアやゲーテも、若い頃には深刻極まりない問題劇を書いていたのだけど、晩年に至り『テンペスト』や『ヘルマンとドロテーア』といった、ある種の解放感溢れる明るさを湛えた作品を書いている。『ミンヨン』にも、僕は『テンペスト』や『ヘルマンとドロテーア』に通ずる明るさを感じた。いわば、『さすらい』や『夢の島少女』が『ハムレット』であり『ウェルテル』だとしたら、『ミンヨン』は『テンペスト』であり『ヘルマンとドロテーア』である。

かつての、ためらいがちな眼差しによる震えるようなリリシズムはたしかに喪われた。しかしその代わりに、確信に満ちた眼差しによる明るいユーモアを佐々木昭一郎は獲得していた。そのユーモアにはモーツァルトの明朗な音楽がぴったりとマッチして、それこそ「諧謔の精神」が倍音的に広がっていくかのような喜びに満ちていた。

晩年の太宰治は、ベートーヴェンのような深刻さよりも、モーツァルトのような「かろみ」こそ芸術の理想と語っていた。

「僕にはよくわかりませんけど、たとえば、モオツァルトの音楽みたいに、軽快で、そうして気高く澄んでいる芸術を僕たちは、いま、求めているんです。へんに大げさな身振りのものや、深刻めかしたものは、もう古くて、わかり切っているのです。僕たちはもう、なんでも平気でやるつもりです。逃げやしません。命をおあずけ申しているのです。身軽なものです。そんな僕たちの気持ちにぴったり逢うような、素早く走る清流のタッチを持った芸術だけが、いま、ほんもののような気がするのです」(太宰治『パンドラの匣』)

まさに、太宰が芸術の理想とした「かろみ」の境地に、佐々木昭一郎は『ミンヨン』で達していたように思う。

あと、主役のミンヨンが、韓国語・日本語・英語の三カ国語に流暢なマルチリンガルということもあり、彼女の台詞はいちいちこの三カ国語で語られる。この多言語のモノローグには一体どういう意図があるのか最初は分からなかったのだけど、その試みがどこまで成功しているかはともかく、これは言語による「倍音の法則」の表現なのだと気付いた。人間は多言語の現実を倍音的に生きている――そういうイメージを佐々木監督はマルチリンガルのモノローグで表現したかったのではないだろうか。このマルチリンガル・モノローグは、ミハイル・バフチンがポリフォニーの要件として挙げた「ヘテログロシア(多言語混淆)」をも想起させるものである。

そして、この「倍音的世界認識」は、寺山修司と組んだ出世作であるラジオ・ドラマ『コメット・イケヤ』以来変わらぬ佐々木昭一郎作品の核心的モチーフなのである。

「関係がある。きっと関係がある。
 どんな裏通りの小さな出来事だって、あたしに関係があるかもしれないんだもの。
 今日、あたしの唄ったうたが、見知らぬ通りすがりの誰かを喜ばせてあげてやっているかも知れないし、あたしの乗りおくれた一台の電車が見知らぬひとにとってひどく悲しい思い出の死の電車になるかも知れない。……
 でも(急にはっきり)
 きっといつか
 あたしはその見知らぬひとたちに逢う日があるでしょう」(佐々木昭一郎『コメット・イケヤ』)



『コメット・イケヤ』は、或る無名のサラリーマンが蒸発したのと同じ日に、素人天体観測家によって発見された彗星(実話)を巡る人間模様を描いた不思議なラジオ・ドラマである。きっと、本当は、サラリーマンの蒸発と彗星の発見の間には、何の因果関係も無い。しかし、そういう何の因果関係も無い事柄に見えない関係性を見出そうとする心性こそ、宗教の原風景であり、人間性の永遠の源泉なのかも知れない。いわば、「無関係の関係性」というフィクションこそ、人間を人間たらしめる根源的な「信仰」なのではないだろうか。

人の意識は超時間的である。時間も場所も異にして交わされた様々な人びととの対話が、脳裏で共時的に混在し共鳴し合って人の意識を形成している。いま目の前にいる人と交わした言葉と、30年前の子供の頃に母親と交わした言葉とが、ある人の脳裏では共時的に響き合い、その瞬間の意識を左右する。そんな人間の意識の時空を超えた倍音的なあり様を、『コメット・イケヤ』以来、佐々木昭一郎は映像的に描こうとしてきたのであり、『ミンヨン 倍音の法則』はその半生をかけた試みの見事な集大成となっていた。

『ミンヨン 倍音の法則』のライトモチーフをなす

「夢の中でこそ現実に触ることができる」

という台詞は、

「関係がある、きっと関係がある」

という『コメット・イケヤ』の台詞の、まさに48年後の「倍音」として2014年12月5日の岩波ホールに喜びに満ちて朗らかに響いていた。
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