世の中にいろいろな名曲があり、それぞれ聴く人の心を豊かにし、時には人生を支えたりしています。今回は“セントルイス・ブルース”が生まれた背景から説き起こし、第二次大戦という人類史上最悪最大の戦争においても、人々がそれぞれこの曲を大切にしていたというエピソードを5つ紹介してくれました。
1914年にこの“セントルイス・ブルース”を作曲したW・C・ハンディの孫が画面に登場します。また、第二次大戦中に強制収容所でこの曲を演奏したユダヤ人ミュージシャン、あるいはソ連のスターリンのために演奏したミュージシャンのエピソードが紹介されます。
あるいは、レコードが手に入らないためレントゲン写真のフィルムに音を刻み込んだシート・レコードを密造していた話もありました。そして驚いたことに激戦の硫黄島で見つかった日本の浪曲版なだ、5つの“セントルイス・ブルース”にかかわる数奇な運命を教えてくれました。
第二次大戦前に世界的にジャズが流行しますが、その“新しさ”は権力側から危険視され弾圧されます。ナチス・ドイツなどはジャズを敵視し弾圧しました。しかしジャズは人々の心に生き残ります。その5様のエピソードがそれぞれ格別の味わいでした。
中でも、激戦の硫黄島で見つかった浪曲のSPが、作曲者W・C・ハンディの孫の手元に届けられる逸話は興味深い。僕は浪曲についてほとんど知らないのですが、川田義雄という人を調べたら、“♪地球の上に朝が来る〜”と歌っていた川田晴久その人でした。“地球の上に朝が来る”ならラジオで何度も聴いています。
YouTubeで今回の浪曲版セントルイス・ブルースがありましたから貼り付けます。
https://www.youtube.com/watch?v=Q3GaPaywwUM
ソ連の独裁者だったスターリンが、ジャズバンドに劇場で“セントルイス・ブルース”を演奏させ、貴賓席で唯一人聴いていたというエピソードも興味深い。それなのにスターリンはジャズを禁止したわけです。そういえばかつて中国で、政府高官が自国で公開しないアメリカ映画をこっそり見ていたと騒がれたことがありました。
僕自身はしかし、“セントルイス・ブルース”のレコードを持っていたかどうかすら定かではありません。しかしこの曲は映画やテレビ・ラジオで、何度も聴いています。レントゲン写真のフィルムを磨いて、そこに音を刻み込んでまで聴こうとしていた人々の熱意もすごい。←この肋骨写真フィルムが後にソノシートへと進化したわけですね。
そして先述の川田晴久(川田義雄が大病のあと改名したそうな)です。僕の祖父が毎朝聴いていたラジオ番組のテーマ曲でした。そういえば同じ頃、祖父は“引揚者の氏名”を放送するNHKの番組を熱心に聴いていました。知人の消息が分かることを期待していたのでしょう。ナチス・ドイツが家庭にラジオを普及させ、それに倣って日本の軍事政権もラジオを利用しました。
何よりも、この曲を生んだアメリカではグレン・ミラーが“セントルイス・ブルース・マーチ”を吹き込んで、軍隊の行進曲に使用していたらしい。それを知ったナチスが替え歌を作って反撃したと紹介されます。それほどに“セントルイス・ブルース”は多くの人の心に沁み渡っていた、ということでしょう。
非常事態の戦時に(それも硫黄島に)浪曲SPを持ち込んでいた事実にも驚きますが、そのSPが無傷でアメリカに持ち帰られ、作曲者の孫娘の手に渡ったという事実も興味深い。そして、その川田義雄の演奏は僕という人間にも“おなじみ”だった事実に驚きます。
そしてピーター・バラカンさんと谷啓さん(2002年には存命だった!)の“雑談”もいろいろ興味深い。終戦直後に米軍基地周りをしていた谷啓さんが、兵士たちが“貸してみろ”と楽器を持ち、音合せするそれだけの音なのに、耳にして谷啓さんが驚愕したというエピソードはすごいと思うし、ありえるだろうと思います。
要するに、政治が人の心を動かそうとしても、付和雷同させるだけでしかないのだ、ということですね。我々はもっと自分の心に忠実に、政治にNOを突きつけるべきなのだと心底思うのでした。
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