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2022年07月29日04:59

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お気に入りの女優のファニー・フェイスが楽しいから、“ジェイン・オースティンなんか知らないよ”と明確に言えます。オータム・デ・ワイルド監督「EMMA エマ」(2020)。

まず“ファニー・フェイス”という言葉は“美人ではないけれど個性的で愛敬のある顔”という意味だと抑えておきます。そして僕にとってこの言葉は、映画「パリの恋人」の原題であり、同時に当時人気を集めた女優オードリー・ヘプバーンの代名詞でもあったということです。僕にとってヘプバーンは、アイドルでもなんでもなく、単なる人気スターでしたけれど。

今回、アニャ・テイラー・ジョイ演じるエマの姿を見ていて、ファニー・フェイスという言葉がぴったりな女優だと思いました。そしてまた、「ハワーズ・エンド」と「ベルグレービア」という映画に続けて、この「EMMA エマ」という19世紀半ばのイギリスを舞台にしたコスチューム・プレイ(時代劇ですよ。コスプレではありません)を連続して楽しめたのはなかなかの収穫でした。

映画としての魅力に溢れた堂々とした「ハワーズ・エンド」、そして通俗的な楽しみを味わうことができた「ベルグレービア」。それらに続くこの「EMMA エマ」は、まるで手塚治虫の少女マンガのようなユーモアに溢れ、それでいて“イタい”部分もきちんと見せてくれる、なかなかのマンガ・ドラマでした。

このマンガ感覚を、アメリカン・コミックと混同してもらっては困るのです。手塚マンガの感覚は、ヒゲオヤジが悪漢を組み伏せ“ワシの目の黒いうちは…”と啖呵を切った途端に後ろから“白目にしてやらぁ”とガツンと殴られる、その感覚なのですが、アメリカン・コミック(そしてそれを拡大再生産大量販売するCGI紙芝居作品群)は、手塚マンガの真髄を忘れている。

アニャ・テイラー・ジョイは、すでに何度も映画化されているこの小説に対して、“私のエマが初めての悪役”だと述べているらしい。エマの痛烈な皮肉がおしゃべりなおばさんを嗜めるつもりだったのに、自らの利己的な態度を暴露してしまう。そのエマの窮地を、親友(というか部下扱いですが)のハリエット(ミア・ゴス)による“はからい”が救い(これは僕の個人的印象です)、ハッピーエンドとなるわけです。

しかし利己的なお嬢様エマを、ここまでマンガ的に演じきったアニャ・テイラー・ジョイには驚きます。監督の演出なのだとしたら、初の長編劇映画なのにこの演出というオータム・デ・ワイルドの手腕に驚くほかありません。僕の印象では、CMやミュージック・ビデオ専門の監督さんたちは、小手先の技術だけを見せびらかすのが主流でしたが、この映画は見事な作劇だと思う。

僕は原作を読んだことはありません(だからヘルトラン・ブリエ風のタイトルにしました)が、エマのお嬢様然たる態度に、ハリエットのいなたい(=田舎たい)純真さを、視覚的にワンカットで納得させる手腕に驚きました。その軽妙な感覚が、僕には手塚治虫マンガと同義だったということです。

やはりジェームズ・アイボリー作品が面白かったことが功を奏しました。そして4時間半に及ぶテレビ・ミニ・シリーズの通俗的な娯楽のあとに、この“美しいカリカチュア”を見せられたら、僕はもう平伏するしかありません。僕は英国貴族の生活についてはほとんど興味がなかったから、この作品にグーフがあっても全く関知しません。それでいいのだぁ(by赤塚不二夫)。

ということで2時間4分は長いのではと逡巡しましたが、結局一気に見てしまいました。ヴィクトリア女王の出産云々というセリフがあるから、19世紀中頃というあたりの世の中も透けて見えます。貴族よりも商人たちに社会を動かす主軸が移行する時代ということがよく分かる。

結局エマの悲劇は、よき相談相手がった家庭教師テイラーさんが、結婚して家を去ったことが原因だったということ(写真3)。結婚相手が「モーリス」のルパート・グレイブスやし。父親(ビル・ナイ。孫とちゃんうか!)も大落胆しているあたり、よう分かりま。

そんな資本主義が悪しき方向に発展した21世紀だからこそ、マンガでもいい、それを笑い飛ばしてしまいたいと感じるのでした。それを具現化する俳優さんたちに拍手を!
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