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2021年04月17日00:31

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最大の謎;厩戸皇子がなぜ「聖徳」なのか

最近の教科書は厩戸皇子と記しているようだ。これはこれで良いと思う。実際に史書ではそう書かれているからだ。にも拘らず、昭和の終わりぐらいまでの教科書には厩戸皇子とは書かれず、飽く迄聖徳太子だった。なぜだろうか。

決まっているじゃないか、立派な人だからだよ。

勿論十七条の憲法など、画期的である。実際、世界史でも法典をちゃんと「憲法」と記したのは恐らく日本のこちらが世界初ではないだろうか。

しかしこの記事にも記載があったが、聖徳太子が自死したとある。記事に追加させて頂くと、実は最愛の妃と「心中」が正しいのではないか。二人の命日はたった一日違いである。

一日違いで夫婦が事故以外の理由で亡くなるとしたら、殺害か、心中しかない。

殺害であれば、下手人は見つかるはずだ。実際太子が若かりし頃、当時の権力者・蘇我馬子は自分の傀儡だった崇峻天皇が逆らった事で、部下の東漢駒(やまとのあや の こま)に殺させている。しかも後に馬子は東漢駒を誅殺しているのだ。このように直ぐに露見する。しかしそれが全く出て来ないのは矢張り心中だろう。

『日本書紀』は沈黙しているが、後年になって、『扶桑略記』では心中したと読み取れる部分がある。日本の歴史学会は何が何でも古い方が歴史的に価値があると考えるから、この『扶桑略記』は全く相手もしないが。

ただ「聖徳」という名がついているのに、心中とは立派だったと言えるのか。また彼の子孫は断絶している。

まだ結論は出さなくて良い。

聖徳太子は河内(今の大阪府)の畿長(しなが)に生前陵墓を建設させている。我々一般庶民が生前墓石付きのお墓を買うのは縁起が悪く、買った家の長は長生き出来ないと言われる。しかしこの時代の皇族の陵(みささぎ)は面積も広く、土木機械もないので、人海戦術で長い時間を掛けて生前から建設される。これを「寿陵」という。

あの吉田兼好の書いた『徒然草』にこんなエピソードがある。彼が建設現場に来て、

「建設現場に着いた太子は『我が子孫は一人として残らず、断絶してしまうから、そんなに入口をたくさん開けておく必要はない。ここも閉じよ、あすこも閉じよ。』と言ったという。」

当時は子孫が断絶してしまう事も余り立派とはいえない。そう思うと、人間的は立派だったかもしれないが、客観的に考えれば疑問を抱かざるを得ない。

この疑問に答えるヒントは彼の時代以後の天皇の諡号にあるかもしれない。「聖徳太子」の「聖徳」、「聖」という文字を用いた諡号を持つ天皇は聖武天皇ぐらいしかいないが、「徳」であれば何人かいる。

冠位十二階の最上位に当たる「徳」。この「徳」のついた天皇、上皇の諡号を集めた。

孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳・・・。

実は彼らは誰一人まともな亡くなり方をしていない。詳しくは歴史の教科書やWikipediaなどを御覧頂ければと思う。特に安徳天皇は子どもである。幼い子どもに人生経験を積んだ徳などまだあろうはずがない。しかし「徳」がついている。また、崇徳上皇は日本史にちょっくお詳しい方であれば、「大魔王」ですらある。当時草書体では「崇」も「祟」も一緒だった。白峰神宮に事実上幽閉状態にされ、「天皇家を呪ってやるぞ。皇の上に民を立たせてやる」と言い続けて憤死したのである。実際、彼の死後、50年も経たないうちに鎌倉幕府が成立し、承久の乱で天皇には実権は無くなった。見事に呪いは実現してしまったのだ。しかしながら彼のような恐ろしい人でも「徳」がついている。

『太平記』には鞍馬の山に平将門、菅原道真、井上内親王など、まともな亡くなり方をしていない武士、貴人たちが集まり、その上座に崇徳上皇が鎮座しているシーンがある。彼らは何と日本の世の中を混乱と恐怖に陥れる会議を催しているのだ。崇徳院が

「愉快愉快」と喜んでいる。

本来「徳」という称号を頂くどころではない立場でも、「徳がありました」と言ってあげることが鎮魂になるからではないだろうか。根底には「怨霊信仰」が隠れている。怨霊信仰は桓武天皇あたりから出て来るのだが、その下地は既に以前から出来ていたのだろう。我々凡人はダメだが、悲惨な亡くなり方、妄執と無念を抱いて亡くなった高貴な人は怨霊のパワーが強いとされて来た。しかしここが日本の場合ユニークなのだが、懇ろに弔えば、守り神となってくれるともされて来た。こちらを御霊信仰ともいう。あの菅原道真も典型的な例だろう。

実際、この「徳」という名がついた天皇・上皇は最も実はもう一人いた。後鳥羽上皇である。彼は死後本来ならば「顕徳」という諡号が贈呈されるはずだった。しかし、当時の史書などでは贈呈がほぼ決まったところで、天変地異が多発した事で、「オーソドックスな」後鳥羽という諡号が贈呈された経緯がある。

「徳」をつける事が鎮魂法だった事の証左だろう。しかし鎌倉時代になると、この方法は効かなくなったのではないだろうか。もちろん天変地異は色々と科学的には説明はつくのだが、当時の公家はそうは考えなかった。

「あんなおどろおどろしい諡号を贈呈したからだ。これは上皇の怨霊の仕業だ。」

と見做した。このことが重要だ。

本来徳のある天皇と言い難い人にまで「徳」を付ける事が鎮魂になると考えられて来た。

ではこの「徳」は?

それは聖徳太子の「徳」から来ているのではないだろうか。夫婦と心中、そして子孫断絶といった史実を考えると、太子もまた鎮魂されるべき側の「徳」を持った人なのかもしれない。

(了)

■没後1400年の聖徳太子 いまだ解明されない複数の謎とは
(AERA dot. - 04月10日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=6478662
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