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2017年07月12日23:23

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稲置街道102 中近東発チュルク〜高句麗経由?

小牧の福禄寿の祀られた交差点を左折して、
稲置街道(いなぎかいどう)から離れ、西に向かった。
交差点から60mあまりの右手(北側)に
赤紅色にペイントされたトタン葺の屋根を持つ石碑があった(写真左)。

フォト

この石碑前からは福禄寿の祀られた交差点の横断歩道が見えており、
もちろん、江戸時代には小牧屋敷(代官所)内に位置する場所だ。
石碑の正面には「開運妙見大菩薩」と刻まれている。
妙見宮の祀られた妙見山啓運寺は
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961388825&owner_id=350761

ここから南東、わずか140mあまりの場所に位置しているが、
何故、ここに石碑が必要になったのか。
妙見信仰に関しても、現在は仏教にカテゴライズされていることから、
発祥をWikipediaのように

「妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。」

としているのが一般的な説だが、
埼玉県飯能市の梅末山 円泉寺(真言宗智山派)の公式ウェブサイトの
(http://www.ensenji.or.jp/)

「妙見菩薩と妙見信仰」の項には面白い説が紹介されている。

「紀元前数千年前、元々は現在のイラクやイランに栄えた古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が方角を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て、中国に伝わりました。」

中近東からインドを経由して中国へとする説はありえることだが、
遊牧民発祥とする説は具体的であり、説得力がある。
仏教の教義の中からは,中近東の遊牧民発祥という言葉は出てこないだろう。

「七世紀に高句麗、百済などの渡来人により伝わったようです。
 最初は渡来人の多い関西以西の信仰だったようでが、天智天皇以降に渡来人を強制的に関東に移住させたために関東に妙見信仰が伝わりました。」

「江戸時代には、妙見信仰が日蓮宗に広がり、特に大阪府豊能郡能勢町の能勢妙見が有名です。
 京都では昭和61年に日蓮宗を中心に洛陽十二支妙見が再興されました。」

「妙見山(山号)、妙見寺とあっても、現在は祀られていないところもある。」

まさに小牧の啓運寺はその山号「妙見山」を持つが、
山内には妙見堂がちゃんと祀られている。

開運妙見大菩薩碑前から、さらに西に祀られているという、
「御殿龍神」を観ようと、西に向かうと、
妙見大菩薩碑から90m以内の右手(北側)にそれらしき、祭祀場があったのだが、
愛車を留める場所を探していて、
御殿龍神の手前、10mあまりの交差点の南西脇に留めたのだが、
その角地は駐車場になっている場所で、
その駐車場の西端が縁石を並べた生け垣になっており、
その中に案内書らしい立て札が立っているのに気付いた。

フォト

愛車を駐車して、その立て札に向かうと、
同じ生け垣の中に石碑が立っていることに気付いた。
案内書は教育委員会によって製作されたもので、
タイトルに『蟹清水砦跡(かにしみずとりであと)』とあった。

「蟹清水砦は、織田信長による小牧山への築城(小牧越し)の際には、信長の武将丹羽長秀の屋敷がおかれたと伝えられる。
 小牧・長久手の合戦時には、小牧山に陣を敷いた織田信雄・徳川家康連合軍がこの砦を修復し、北外山砦、哥津(うたづ)砦とを結んで小牧右翼の連砦を成して秀吉方の陣地に対抗し、交番で守備した。
 砦の規模は東西46間、南北61間と伝えられ、昭和20年代頃までは堀跡、土塁跡なども残っていた。
 砦は、江戸時代には小牧御殿の庭園の一角になっていて清水が湧き、蟹がいたのでしょう、蟹清水と呼ばれていた。その後の開発によって周辺は宅地化され、現在は砦跡を示すものや清水は残っていない。」

日本人が清水が湧き、蟹がいた場所に、素直に「蟹清水」という
「紅葉饅頭」のような名前を付けるとは思えないので、
迦邇米雷王(カニメイカヅチ)の情報が無いか、調べてみた。
迦邇米雷王は古墳時代の皇族とされているが、この地域は古墳の多い地域であり、
小牧山にも前方後円墳説はあるのだが、
直接、迦邇米雷王と結びつく情報は見当たらない。
ただ、この地域の物部氏情報の露出と関連があるのかどうか、
確認は取れないのだが、
迦邇米雷王の父、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は
名前にコマ(木真=高麗)と読める文字を含み、
高麗王若光(じゃっこう)と同じ「若」の文字を持つ人物なのだ。
いや、

木真若王=高麗若王←高麗王若光(コマおうじゃっこう)

山代之大筒木真若王と高麗王若光は同一人物である可能性すらあるのだ。
迦邇米雷王が高句麗の関係者とするなら、
別名の若角城命(ワカツキ)に「角」の文字が含まれていることは裏書きになる。
そして、若角城命(迦邇米雷王)は多遅麻君と同祖とされている。
つまり、物部氏なのだ。
さらに、迦邇米雷王の外祖父(母方の父)、伊理泥王(イリネノミコ)が
高句麗大臣伊梨柯須弥(イリカスミ)と同じ「イリ」音を持つのは偶然だろうか。
中近東から中国に入った妙見信仰の盛んな小牧に中近東と中国の間に存在した
チュルクの王の使用した名称「イリ」が見えるのも偶然ではない可能性がある。
可能性はあるものの、決定的な情報は今のところ見当たらない。
メインの石碑には「蟹清水砦跡」と刻まれていた(写真右)。
この駐車場の西側(石碑の)裏面は整地で1段低くなっており、
地形的にも南西の伊勢湾に向かって下っており、
かつては海岸が近くに迫っていた雰囲気は残っている。
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