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2017年07月18日07:53

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稲置街道107 清洲からやって来た

小牧神明社の藩塀を迂回すると、
30mあまり先の正面に銅板葺入母屋造の拝殿が
高さ50cmほどの基壇の上に設置されていた。

フォト

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藩塀から拝殿に向かうと、15mあまり奥で、境内は左右に広がっていた。
拝殿前に至ると、拝所には3コの鈴が下がっていたが、
中央の鈴は大きく、両脇は小振り。
鈴紐は小振りな鈴の方が房が付いていて長い。
大晦日の参拝者は多いようだ。
教育委員会の撰文による『御由緒』にはこうあった。

「小牧神明社の祭神は、天照大神で。永禄六年(1563)、織田信長が清洲から小牧山へ居城を移した際、災厄除けのために、清洲にあった御園神明社を守護神としてこの地に分祀したのが創建である。天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦では、小牧山に布陣した織田信雄、徳川家康が崇敬したという。江戸時代に入り、尾張藩祖徳川義直公がこの地に来遊した折り、小牧山の東麓にある神明社を吉祥の社として、牡丹の造花数十本を下賜して子供達に持たせて歌舞させた。後の寛文七年(1667)には二輌の山車を造り牡丹の造花を高欄に飾り、三月十六日の例祭日小牧宿の街路を曳き回すようになったが、これが小牧神明社の春祭、神明祭の起源である。現在は。山車は一輌となったが、小牧市指定有形民族文化財に指定されていて、春の例祭には子供達が境内に据えられた山車舞台の上で日本舞踊を披露している。
 明治時代以降、神社の整理・統合が進み、明治四十二年(1909)に南宮社を合祀したのを皮切に、津島社、金比羅社、秋葉社、須佐之男社、山神社、稲荷社などが合祀された。現在では、合祀された神社の祭礼も神明社を舞台として行われている。小牧神明社の三大祭、春の神明祭の他、夏、四輌の山車が練り歩く秋葉際(山車四輌は小牧市指定有形民俗文化財)では境内で山車に搭載された絡繰りの縁起が奉納され、秋の天王南宮祭では小牧指定無形民俗文化財〈五本棒オマント奉納神事〉も境内での奉納を行っている。

 祭神
  天照大神
  金山彦神
  健速須佐之男命
 境内社
  須佐之男社 秋葉社 御嶽社 天神社 金比羅社 山神社 稲荷社 
 その外に
  御林稲荷社 松尾神社 市神 津島社 も祀られている。    」

神明社に金山彦神と健速須佐之男命が合祀されているとは、
ここは特殊な神社のようだ。
地図では小牧神明社より目に付く表記のされていることから、
ここにやってくる動機となった松尾神社は「その外」の扱いになっている。

ところで、拝殿の裏面を囲う塀も拝殿と同じ仕様の銅板葺となっている。
拝殿を迂回して塀に向かうと、塀の基壇を取り囲むように巨石が並んでいる。
(写真左)
塀の側面に廻ると、トタン葺き竪連子窓付きの素木の塀は正面側だけで、
側面はコンクリート造で、逆に正面側では装飾的に並べてあった巨石が、
石垣として使用されていた(写真中)。
東側の塀の側面には6本の鰹木の乗った銅板葺神明造の本殿に向かう
鳥居型の素木の神門が付いている。

『御由緒』にある境内社のうち須佐之男社、秋葉社、御嶽社、天神社の4社は
見られる境内内には見当たらなかったから、
おそらく塀内に祀られているのだろう。
側面の神門を背景に東向きに巨石の基壇を持った銅板葺素木造の境内社である
津島社が祀られていた(写真右)。
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