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2021年02月13日21:34

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佐藤秀明『三島由紀夫 悲劇への欲動』――PC的に無害化された三島由紀夫論

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佐藤秀明の『三島由紀夫 悲劇への欲動』(岩波新書)を読んだ。

この本は昨年の三島由紀夫没後50年に合わせて大量に刊行された三島本の一冊で、新刊で出たときにも興味を持って買おうかと思ったのだけど、「欲動」という精神分析用語を副題に使っていることに嫌な予感がして結局スルーしていた。

最近、人に勧められたので手に取ってみたのだけど、悪い予感は当たって、数ある三島本の中でも僕の評価はかなり低くなる。著者の佐藤秀明は、現在の三島由紀夫研究のアカデミズムにおける第一人者みたいなポジションの人なので、文献はよく読み込んでいるし、三島の伝記的な事実の整理も過不足ない。各作品の読み込みは(新書だから仕方ないけど)ソツはないけどそれほど深くないとはいえ、全体に「事実」に関する紹介に関しては初心者向けによく整理された一冊になっているとは思う。

ただ、単なる没後50年記念の小冊子で済ませたくなかったのか、新味を出すための切り口としてラカンの「享楽」を援用した「前意味論的欲動」という疑似精神分析的オリジナル概念を持ち出して、これによって三島の作品や文化論・天皇論の分析を行っているのだけど、これが本当に恣意的な読みにしかなってなくて、この本の価値を著しく下げている。佐藤秀明の「前意味論的欲動」というトンデモ概念は、森さんの「女性は話が長い」発言よりもはるかに余計な長物である。

いまさら精神分析をここまで無批判に援用してしまうナイーヴさもちょっとどうかと思うけど、しかもその折角持ち出してきたラカンの理解もあまりにも付け焼き刃。たいしてラカンや精神分析に詳しくない僕でも、ちょっとこれは酷いなと思うレベル。次の箇所など、「大文字の他者」なんて持ち出して、なにやら曰くありげなことを語っているけど、まったくラカンとは関係ないし、意味不明な文章になっている。

「「文化防衛論」が書かれた必然はここにある。三島の前意味論的欲動から発した異端者意識、天皇、自衛隊の国軍化といった問題系はひと続きの論理として繋がっており、それらは超越的存在によって包摂されなければならないのである。
 しかし、このような文化現象を俯瞰する「大文字の他者」(ジャック・ラカン)はもはや存在しない。戦前戦中の天皇制への反省から、「大文字の他者」を持たないようにしたのが戦後社会だった」(佐藤秀明『三島由紀夫 悲劇への欲動』P196)

「大文字の他者」が、そんな選択的に持ったり持たなかったりできるようなものなら、そもそも精神分析なんて必要ないだろう。このくだりだけで、佐藤秀明のラカン理解のお粗末さは暴露されているし、この本での精神分析的方法がいかにいい加減なものかがわかる。

ただでさえ疑似科学としてオカルトとさして変わらないものと批判されがちな精神分析だが、それでもそれなりに概念を整理して、その理論枠組みの中で精神分析なりのルールに従って使えば、それなりに面白い議論ができると思っているので、一概に精神分析を僕は否定しない。しかしこういういい加減な本を書かれるとさすがにゲンナリする。

佐藤秀明が一知半解で精神分析の真似事をやったのは、何かしら新味を出したいというのと、三島の天皇論や政治行動も要はすべてはコンプレックスから出たもので、社会的問題ではなく個人の心理の問題に過ぎないとしたかったからだと思う。そして「生きづらさ」という最近の流行り言葉を使って、その「生きづらさ」の中であがき続けた人が三島だったと結論づける。「生きづらさ」という言葉を使っているのは、ロスジェネ以降の若者たちへ三島に興味を持たせるためという狙いもあるだろうし、「生きづらさ」の先駆者として三島を読むことで救われる若者もいるかもしれない。それはそれで構わない。

しかし、三島自身は晩年は精神分析を否定していたのだし(三島は安部公房との対談で自身の「無意識」すら否定していた!)、その三島の精神分析否定はそれこそ三島の文化論や天皇論を理解する上で重要な意味を持っている。それに言及せず、避けてしまっているのも、佐藤著から知的誠実さを喪失させてしまっていると思う。

三島を論じる際に精神分析的方法を援用するのであれば、それは三島の精神分析否定に挑戦することになる。残念ながら、佐藤秀明の『三島由紀夫 悲劇への欲動』には三島の精神分析否定を超えるような迫力も議論もなかった。対象との決定的な部分での対決を避けた評伝は、それこそ三島のいう「プラザの噴水」のようなものにしかならない。

三島の思想にはまったく興味がないと公言している平野啓一郎あたりから、この手の三島の危険な要素を巧妙に避けた、PC的に無害化された三島論が目につくようになっているけど、三島の魅力は何と言っても戦後日本への最もラジカルな批判者だったことにあるのだから、そこに向き合わないのであれば、そもそも三島を読む意味も論じる意味も僕はないと思う。
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