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2014年09月27日23:20

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善悪の「彼岸」――死刑囚絵画展2005年〜2014年 大道寺幸子基金の10年

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お彼岸の23日、マイミクの内山さんがレコメンドしていたこともあり、渋谷区文化総合センター大和田で開催されていた「死刑囚絵画展2005年〜2014年 大道寺幸子基金の10年」へ行ってきた。すでに刑死した人の作品も展示されていたから、これも一種のお彼岸の「供養」ということになるかもしれない。

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最終日ということもあってか、それほど広くない会場はなかなか混んでいた。

会場に入ってすぐ、右側の壁に和歌山毒カレー事件の林真須美の絵が数点展示されていたのだけど、どの絵も意外とファンシーなデザインと色遣いで、彼女の「可愛らしい(?)」内面を窺わせるようだった。

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                      (林真須美の作品)


謝依俤という中国籍の死刑囚は、元々絵の修業をしていたのか、見事な墨絵作品を出展していて目を引いた。

大牟田4人殺害事件の北村孝紘死刑囚も、本職の絵師かと思わせる刺青風の作品を出展していたが、特に血の涙を流す目玉は彼の心境を画像化したようでなかなかインパクトがあった。

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                      (北村孝紘の作品)

ペンネームで作品を出展している死刑囚も多く、「音音」という人は北斎のパロディで原発推進を風刺するような絵を出展していた。死刑廃止と原発廃止は左翼の二大好物だからか、この二つのトピックを結び付けたような作品も数点出品されていた。どの作品も、死刑も原発事故も「国家による殺人である」と訴えたがっているようだった。

有名どころでは、オウム真理教の宮前一明死刑囚と埼玉愛犬家連続殺人事件(映画『冷たい熱帯魚』のモチーフになった事件)の風間博子死刑囚の作品が目を引いた。

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                      (宮前一明の作品)

この展覧会に出展されていた作品は、全体に、自分の犯した罪に対する贖罪の念や被害者に対する謝罪の念よりも、自分もこの不条理に満ちた社会と死刑制度という「国家による殺人」の犠牲者なのだ――という被害者意識が強く出たものが多く、その辺りに僕は違和感を感じぜざるを得なかったのだけど、宮前死刑囚の作品にはそういう被害者意識が希薄で、宗教的修行の経験者だからか、もっと達観した視点から世界と死刑囚である自分自身を眺めているような表現になっているのが印象的だった。

逆に、風間博子死刑囚の作品は、贖罪の念のようなものは微塵も感じられず、徹頭徹尾、自分こそが被害者なのだ――という妄想的怨念が異様な迫力を醸し出していた。「潔白の罪、無実という希望」「幽閉の森、脱出の扉」などの絵のタイトルも、主観世界においては彼女自身は加害者ではなくあくまで被害者として観念されていることが窺えて、人間の業の深さみたいなものも感じさせられてしまった。世界という不条理に対する強烈な被害者意識を露悪的な作風で表現しているという意味で、風間博子死刑囚の作品は、少し、立島夕子の絵を思わせるものもあった。

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                      (風間博子の作品)

死刑囚たちの加害者意識よりも被害者意識の強さは、弁護士や、死刑制度廃止を訴える人権団体の影響下に形成されたものなのかもしれない――と展示されている作品群を見ながら思ったのだけど、特に原正志死刑囚の、「安保破棄」「プロレタリア独裁万歳」「消費税値上げ反対」「在特会反対」といった左翼系のスローガンを脈絡なくチャンポンにした「love&peace」という作品は、ほとんど高円寺風サブカル左翼のパロディになっているような趣きもあった。

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                      (原正志の作品)

おそらく弁護士を通じて接触のあった死刑廃止を訴える左翼活動家に洗脳されたのであろう原正志死刑囚の作品の対極にあったのが、「死刑囚の味方」というペンネームの死刑囚の作品である。「死刑囚の味方」の作品は、死刑廃止を運動の道具として利用している左翼運動家や、さらにはこの死刑囚絵画展の審査委員の偽善性を告発する言葉が書き連ねられていて、死刑廃止運動も内部では色々泥臭い人間模様が展開されているのだろうな――と妙に人間くさいユーモアを感じさせられた。僕が今回の死刑囚絵画展に出展されている作品で最も「自由な精神」を感じたのは、「死刑囚の味方」の「左翼撲滅」という言葉を見た瞬間だった。彼が自分のことを「天然危険物」と称しているのも、見上げた反骨精神と感心した。

他には、「万年三太郎」というペンネームの死刑囚の「獄ちゅう物語」という漫画が、思いっ切り『ろくでなしブルース』風だったのにも、不謹慎ながら笑わせてもらった。

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                     (三年万太郎の作品)

以前、ディスクユニオン神保町店に、「犯罪者ものコーナー」というジャンルがあって、チャールズ・マンソンと並んで勝新太郎のCDがディスプレイされていたのを見つけて思わず笑ってしまったことがあるのだけど、芸術を「犯罪者」、それも「死刑囚」という括りで纏めて展示するのも――僕自身は芸術と経験は畢竟別物であるという考え方の持ち主とはいえ――それなりに面白い企画にはなると思った、今回の死刑囚絵画展だった。ただ、これは一流の芸術ではなく、所詮はアウトサイダーアートであるとしか、やはり僕には思えなかったけど。芸術家が罪を犯してしまうことはあるけれど、すべての犯罪者が芸術家というわけではない。それはトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』のラストで語られている通りである。

なお、死刑囚への共感から書かれたカポーティの『冷血』では、死刑囚ディック・ヒコックの言葉として次のような言葉が紹介されている。

「ところで、死刑についてどうお考えかね? おれはそれに反対じゃないよ。復讐というほかに意味はないがね。しかし復讐がどうして悪いか? そいつはとても重要なことなんだな。もしおれがクラター一家なり、ヨークやレーサムが始末した連中なりの親戚だとしたら、そいつに責任あるやつがあのでっかいブランコに乗せられるまでは、気が休まらんだろうな。新聞に投書したやつらのことを思い出してごらんよ。このあいだ、トピーカの新聞に二つ載っていたよ――その一通は牧師が出したもので、要旨はこうなんだ――いったいこの法律の茶番劇はどうしたことなのか、なぜあのろくでなしのスミスとヒコックの首を絞めないんだ、あの人殺し野郎どもが今もって納税者たちの金を食っているのはどうしたことなのか? ってね。おれにもこうした連中の見方がわかるんだよ。やつらは自分たちが望んでいるものが手にはいらないから憤慨してるんだ――復讐ってやつをね。しかも、もしこのおれが逃れたりすりゃあ、やつらはお望みが達せられねえってわけさ。おれは絞首刑は正しいと思うよ。首を絞められるのがこのおれでさえなければな」(カポーティ『冷血』)

このディックの言葉にも、僕はある種「不羈」ともいうべき「自由な精神」と手に負えないタフなユーモアを感じるのだけど、死刑制度に反対している日本の左翼運動家は、この死刑囚自身の言葉をどう受け止めるだろうか。

何しろ、彼岸花の花言葉は「また会う日を楽しみに」だそうだけど、日本人にとって「死」とは何か――ということにまで思い馳せさせてくれた、お彼岸に見る死刑囚絵画展だった。

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