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2013年04月12日21:12

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瀬戸夏子(歌集)『そのなかに心臓をつくって住みなさい』

2012年刊。

一風変わった(歌集)である。歌集の語に(  )を付けるのは、この本の扉および奥付の表記に倣った。

この本は、ある意味では歌集ですが、所謂歌集とは若干違っております、ぐらいの意かと思う。

目次に挙げられている小項目は13。最後の13番目の「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」だけ、前の項と一行アケて記されていて、12番目までの各項目にはそれぞれ(●首)というふうにその項での掲載歌数が付記されているのだが、13番目にはそれがない。

13番目の「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」は散文詩または短篇小説という趣きの散文である。

1番目から12番目までの項のうち、所謂歌集風に歌が並んでいるのは9つの項目。あとの3つの項目は、散文詩ないし自由詩と思われる作品である。このへんが、(歌集)という表記のゆえんだろう。

散文詩と記したが、ふつう、散文詩というのは、何か一定した意味系に支えられた叙述であることを前提としているものだ、と思うであろうところ、この(歌集)の最初の項の「すべてが可能なわたしの家で(20首)」は、散文詩風ではあるがこのような作品である。冒頭の6行を引く。

[以下引用]

すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ
二重の裏切り、他になにもない朝の音楽に
もう何リットルかわからないけれど、生きてるかぎりは優しくするから
あなたが日本人だとしてもわたしたちにはまるで関係ないって
用事がなくてもコートは羽織っていいし、可能性が避ける道をとおって
なにもかけていないスパゲティのような体臭で

[引用終り]

もうこのへんで、「この本読むのやめます」と言い出す読者は言い出しそうだ。まあ、まあ、そう言わず、これは何かの実験なのだろう、そこを受け取らなくちゃ・・・、と思って読み進めてゆくと、次の項の「マイ・フェイバリット・ヘイトスピーチ(25首)」は、一行ずつ短歌が並んでいるページである。が、これがまた僕らがふつう見慣れている短歌とは相当に様相を異にする短歌である。その冒頭5首を引く。

[以下引用]

ふたたび老いて暗記する日本のエメラルドの淫乱に橋架かり

たったいま畳まれている無数のジーンズの魂を売り払うにもペットショップに?

あんまり硬くて歯に埋まる種・埋まる歯は宝石の子どもにちがいないのに

眼がつやつやの季節、ゆうぐれ、強盗のまくらを夢に置き去りにして

くらい風呂場 菜の花はあちらから明けて。二乗にするよ ふさふさの顔

[引用終り]

このあたりでまたまた「この本読むのやめる」という読者が生じそうだ。しかしまた、なんだかこの意味ありげで意味なさげでヘンな作品群にはまってしまいそうだよ、という読者も現れるだろう。僕はどちらかというと後者であった。よってこの本をラストまで読んだのである。

最初の項の「すべてが可能なわたしの家で(20首)」は、この(歌集)に添付されている栞に何人かの方が書かれている文章によると、その中のあちこちに太字が潜んでいて、それを繋げると1首になり、そうしたものが20首分あります、ということらしい。が、印刷の不首尾か僕の眼の不首尾か、どれが太字なのかが判然としない。したがって、もし瀬戸さんがそこに太字を潜ませたのだとしたら、その意匠はよく伝わって来なかった。けれども、太字を繋いだら1首が浮かび上がって来た、といったところで、そんなのがいったい何なんだ? というのがこの(歌集)全体の地平なので、そこのところはわからないまま読み飛ばした。僕はむしろ「卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。」「夏は浴衣、夏のお祭り、夏の海、夏になったら花火をしようってさ」など、さりげなく散文詩中の1行として短歌が置かれていて、それが20行あるのかな? などと思いながら読んだ。「卵にゆでたまご・・・」の行の前後にも「発達」という語を入れた行があって、ぼくはそのへんを読んで山下恒男さんの『反発達論』を想起したのだった。

9番目の「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)(120首)」という穂村弘の偽作風の項あたりから、1首を通して意味の筋が通っているように読める歌がちらほらと現れる。例えば、

あしのゆび5本が割れているさきにあしくびがあり足あり人ある

おいで……。死期を悟ったさくらんぼのように大人しくしててもどうにもならない。

のような歌。

また、

日本を脱出したい? 処女膜を大事にしたい? きみがわたしの王子様だ

そのなつの数限りなきまたひとつ撃つべき子どものBL遅れて

は、塚本邦雄、小野茂樹だろう。ほかにもそのたぐいのものがいくつかあるのかも知れないが、僕の教養の範囲の狭さゆえにわからなかった。最初の項目の散文詩の中に、「むこう側から穂村弘と小池光が手を繋いで歩いてくる、まだ覚えているかどうかも、」という1行もある。

昨夜はちょっと飲みすぎてしまったので、今、僕の手許に大正漢方胃腸薬がある。その添付文書の冒頭の記述は、「大正漢方胃腸薬は、安中散と芍薬甘草湯の組み合わせにより、ふだんから胃腸が弱く、不規則な食生活や夏バテなどで胃腸が不調である、食欲が出ない、といった人に適した胃腸薬です」という文だ。この意味をまるごと信じるかどうかは別問題だが、この文が伝えようとしている意味は一義的に明瞭で、争いの余地がない。吉本隆明はこのような表現を「指示表出」と名付け、それと対極的な、例えば、初めて海を見た者が感動のあまり「う・・・・・・」と声を発したような表現を自己表出と名付けた。しかし、後に吉本自身が言っていたように、指示表出−自己表出という2項対立で表現を測るのは、いささか乱暴なところがある。

「大正漢方胃腸薬は・・・」と「う・・・・・・」のほかに、「づぢづぢづぢづぢ・・・」のような表現がある。これは、意味を消して表現を音へ還元しようというものだ。かつて坂野信彦が「深層短歌」の名において試みたのは、この方向であった。

もうひとつ、「僕と未来は金曜の詳論の天井でたくましく無礼を干した」というような表現があるだろう。各パーツは意味を帯びるが、パーツ間の脈絡が通らないので、全体として意味不明な表現として受け取られるようなたぐいのものである。坂野が愛好した右脳・左脳論で言えば、「づぢづぢづぢづぢ・・・」は左脳を休ませ右脳だけで享受できる音列である。一方、「僕と未来は・・・」のようなものは左脳を発動させるが、その発動を不首尾に終らせて左脳をへこませるような表現である。

瀬戸さんがこの(歌集)で試みたのは、「僕と未来は・・・」のような表現のシャワーを読者に浴びせること、それによって、読者が日常世界で短歌とはこういうものだというコードを設けて読み取っていたもの、あるいは言語とはこういうものだというコードを設けて読み取っていたもの、その自明性を解体して、それがいかに特異なものであるかを、異化という方法で炙り出すということだったのではないかと思う。

その意味で、かつて坂野信彦がいた。今、瀬戸夏子がいる。そこにはものごとの必然の導きがある、と言えるだろう。

問題はその先である。異化はただ一回だけ行なわれるから異化なのであって、これを繰り返すのは愚行だ。坂野はただ一回の試行の後、短歌のシーンから消えた。瀬戸さんは、このただ一回の試行の後、次はどのような表現を提示してくれるのだろう。

その次の表現を、ぜひ、ぜひ、読みたいと思う。

なおこの(歌集)は出版社から刊行されているものではなく、ISBNの番号も付いていない。いわゆる自費出版に近い形態のものだろう。奥付には、連絡先として次のメール・アドレスが記されている。

setonatsuko31@gmail.com

僕はアマゾンの下記のサイトで購入した。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9D%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%BF%83%E8%87%93%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%BD%8F%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84-%E7%80%AC%E6%88%B8-%E5%A4%8F%E5%AD%90/dp/B00ADQMK2C/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1365629904&sr=1-1&keywords=%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%A4%8F%E5%AD%90


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