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2023年11月27日01:03

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「デナ物語」――トーマス・マンの描いた神話時代のイスラエルびとによる虐殺行為

旧約の創世記に、ヤコブの娘のデナが古代パレスチナに住んでいたヒビ人(パレスチナ人の祖先の一つか)の青年に手籠めにされ、それに怒ったデナの兄弟たちがヒビ人の街を襲撃して虐殺の限りを尽すという話が書かれている。神話時代のパレスチナで起きた、ユダヤ人の祖先たちによる原住民へのテロリズムみたいなものだけど、トーマス・マンは、創世記に取材した『ヨゼフとその兄弟たち』で、一章を割き「デナ物語」と題して、このデナを巡るヤコブの息子たちの虐殺行為を詳細に描いている。

トーマス・マンが「デナ物語」を含む『ヨゼフとその兄弟たち』の第一巻『ヤコブ物語』を書いていたのは1920年代後半から1930年代初頭にかけてで、刊行されたのは1933年になる。ナチスによるユダヤ人迫害が強まっていた当時のドイツで、古代ヘブライ神話に取材した長編小説を書くということ自体、一種のポリティカルなプロテストの意味合いを帯びて受け止められ、やがてマンはドイツ本国に住んでいては危険な状態になり、スイスへ、ついでアメリカへ亡命して、『ヨゼフとその兄弟たち』を書き継ぐことになる。このマン自身のドイツからアメリカへの亡命自体、『ヨゼフとその兄弟たち』における兄弟たちによってエジプトへと奴隷に売られたヨゼフの姿にオーヴァーラップするものがある。『ヨゼフとその兄弟たち』にあっては、ドイツ=イスラエル/アメリカ=エジプト/トーマス・マン=ヨゼフ/ナチス=ヨゼフの兄弟たち――というメタファーが成立しているのである。そしてそのメタファーを駆使して、マンは『ヨゼフとその兄弟たち』を「大いなる和解の物語」として書き上げる。

「これはいかにも人を興奮させる晴れがましい話ではないか! そしてこれは晴れがましい諧謔でもって、いやが上にもほがらかに仕上げなければならない話なのだ。というのも、友よ、ほがらかさと抜け目のない諧謔とは、神がわたしたち人間に与えてくださった最上の賜物で、この複雑な疑わしい人生に処する最も心のこもった方策だからだ。神がわたしたちの精神にほがらかさと諧謔とを与えてくださったのは、それを用いてわたしたちがこの人生、このきびしい人生をさえほほえませることができるようにするためなのだ。兄たちはわたしを引き裂いて穴のなかへ投げこんだのに、いまはわたしの前に立たなければならない、それが人生なのだ、そして、行為は結果に照らしてみて判断すべきかどうか、悪い行為でも、良い結果を生むために必要なものであったからというわけで良しとすべきものかどうか、この問題もまた人生なのだ。こういう問題は人生そのものが提出する問題なのだからね。真面目なだけではこういう問題に答えることはできない。ほがらかさを帯びてこそ人間の精神はこういう問題の上に立つことができるのだし、そうなれば人間の精神はおそらく、答えを見出すことのできない問題に心からの諧謔を浴びせることによって神そのもの、人間の問いに答えてくれないこの強大な存在をさえほほえませるようになるだろう」(トーマス・マン『養う人ヨゼフ』)

マンは、妻のカーチャ・プリングスハイムがユダヤ系だったこともあってか、当時のユダヤ人の置かれていた状況には同情的であったと思う。ナチスの迫害を受けていたユダヤ知識人がアメリカへ亡命する支援をしたりもしている。神話と現代を重ね合わせるようにして『ヨゼフとその兄弟たち』を書き継いでいたマンは、古代パレスチナやユダヤ人に関する文献を渉猟し、図書館がひとつ建てられるくらいの資料を蒐集したそうである。神話と現代を重ね合わせながらユダヤ人の歴史を観察していたマンは、当然、当時のシオニズムの動向も注視していたと思われる。マンが『ヤコブ物語』を執筆していた1929年に、エルサレムでユダヤ人とパレスチナ人が衝突する「嘆きの壁事件」が起きている。マンが『ヤコブ物語』の「デナ物語」で、ヤコブの息子たちとヒビ人の衝突とその結果のヒビ人虐殺を詳細に描いているのは、あるいは、1929年の「嘆きの壁事件」を念頭にしたものだったのかもしれない。

欧州におけるユダヤ人迫害に同情しながらも、一方で、迫害を逃れた移住先のパレスチナでシオニズムを尖鋭化させたユダヤ人が先住のパレスチナ人に横暴な振る舞いをすることにもマンは批判的だったのではないだろうか。そういうユダヤ人への「戒め」として、神話時代のパレスチナで起きたユダヤ人の祖先たちによるカナンの先住民への虐殺行為を、マンは「デナ物語」で詳細に描き、後先考えずにその場の復讐心で虐殺に逸った息子たちを叱責するヤコブにこう語らせているように思われる。

「そんなに酷く憤慨し、そんなにいつまでも怨みを含むとは。お前たちはよくよく呪われた奴らだ。ろくでなしめ、お前たちはわしに対して何ということをしてくれたのだ。お蔭でわしはこの地方の人々の眼から見れば、蠅のたかった腐れ肉みたいに悪臭芬々たる人間になり下がってしまった。もし奴らが復讐のために寄り集まってわれわれに襲い掛かったら、一体どうなるというのだ、わしらはちっぽけな同勢にすぎない。奴らはわしとわしの一族をアブラハムの祝福もろとも打ちくだき、跡形もなく滅してしまうだろう。このアブラハムの祝福こそは、お前たちがのちのちの世に永く継ぎ伝えて行かなければならないものだというのに。そして今までに折角培われてきたことはこれですっかり駄目になってしまうだろう。目先きの利かないお前たちだ。用もないのに押しかけて、傷で唸っている奴らを虐殺し、現在のこの窮境をわが身に招く。そして、未来や神との契約やそれに神がわれわれにして下さった約束のことを考えるだけの頭の働きもないとは」(トーマス・マン『ヤコブ物語』)

このヤコブが息子たちを叱責する言葉は、目下のガザ危機にあって、シオニストを批判して超正統派ユダヤ教徒が口にしてもおかしくない言葉である。マンは、シオニズムとユダヤ教の乖離をも視野に入れていたであろうことが、このヤコブの台詞から窺えるように思われる、「大いなる和解」を期待しながら。
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