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2023年08月19日05:17

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「短歌人」の誌面より(179)

2023年8月号より。

または影または六月「行け」といふささやき声に「押すな」と応ふ   阿部久美

…世界には諸々の「事実」があり、人にはそれぞれの「思い」がある。短歌はそうしたことどもを伝える手段だ、というふうに考えていると、この歌のようなものは何がなんだかわからない歌だ、ということになるだろう。ほんとうは話は逆で、この作品のようなものこそが「うた」なのだ。単に「事実」や「思い」を伝えたいというだけなら散文で伝えれば十分だろう。「Kさんのコメント」(2023.5.11)にて、安斎未紀さんの一首について「こういう歌に解釈は要らない。意味解きしたら歌が死んでしまう」と書かれていたくだりをご紹介したが、この阿部久美さんの一首も同様だろう。特に初句〜2句が十分に詩化されていてすてきなフレーズだ。こうしたフレーズは恩寵のようにして降りて来るものであって、今月号の阿部さんの6首の内、恩寵が降りて来たのはこの歌だけのようだ。それでも作者もこの一首には愛着があったのだろう。一連のタイトル「または影」はこの歌から採られている。

椅子に椅子を重ねたやうに座りをりカフェテラスに細身の青年ひとり   時本和子

…上の句の直喩がまことに巧い。「カフェテラスに…」と先ず言ってしまってから「椅子に椅子を…」ではまずい。上の句と下の句の配置もよく考えられている。明日から4年間休館となる鎌倉文学館を訪ねた一連(ということは今年の3月31日だろう)の1首目で、僕はかつて鎌倉をよく訪ねていた頃、駅近くのカフェでひと休みしてから歩き始めていたので、そんなシーンかも知れないと思って読んだが、もちろんこの歌だけを一首独立の作品として読むこともできるし、むしろそうした読み方を要求している作品だろう。

「杏だったのか」と声に出しつつ近づきぬこの木はじめてわが声を聞く   岩下静香

…「杏の木」5首の4首目。ひとつ前の歌は〈暴風雨過ぎたる後の木の下に枇杷よりまろき実の落ちいたり〉。それを見て「杏だったのか」と思わず声が出た、というのがこの歌だ。そうだ。今、この木ははじめてわが声を聞いたのだな…という思いがよぎる。これを、木が人間の声を聞くということはないのでこれは擬人法だ、などと言ってはいけない。もし擬人法と言うなら、2010年10月29日の記事にて、矢野智司さん(『贈与と交換の教育学』)が宮澤賢治の擬人法について「賢治の擬人法は通常の近代擬人法とは異なり、世界は人間を中心として回収されるのではなく、ぎゃくに人間が草木虫魚や鉱物へ溶解する。したがってそれはモノローグではなくポリフォニーの語りとなる。こうした賢治の擬人法を『逆擬人法』と呼ぶことにしよう」と言われていたくだりをご紹介したが(*)、岩下さんの作品もまた逆擬人法と言うのがふさわしい。次の5首目は〈木の下に立ちてしばらく見上げおりこの木と我のふたりの時間〉。〈我〉は木に〈汝〉を語り、木もまた〈我〉に〈汝〉を語る。マルティン・ブーバーはそんなふうに書いていた…などということも思い出した。(下記記事(**)をご参照ください。)
(*)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1611365812&owner_id=20556102
(**)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1473792447&owner_id=20556102

約束の一回転は果たされて観覧車出づ人はさびしく   寺阪誠記

…観覧車なるものもまた世人の気晴らしの一手段であって、何がしかの代金を払ってかの機械の一回転のサービスを購入し、それが果たされればまた鬱陶しい娑婆へ帰るのである。そうした世人のさびしげなさまをさびしげにスケッチしている一首。栗木京子さんの〈観覧車回れよ回れ…〉が青春の観覧車だとすれば、こちらは生老病死を抱える人の夕暮れの観覧車だ。

光り物身にじゃらつかす好色の地主もたぶん阿弥陀を信ず   弓 廣

…そう言えば「地主」というのはマルクスが『資本論』の分析によって辿り着いた三大階級のひとつなのに、「資本家」や「労働者」に比してあまりスポットライトが当たらない。しかし地域名望家などと言われるのはたいてい地主だし、王制の尾を引く国家と縁が深いのも地主だろう。その地主にもいろいろあって、こやつは「光り物身にじゃらつかす好色の地主」である。いかにも地代という不労所得によって食っている連中の一典型ではないか。そういうお方もたぶん阿弥陀を信じていることだろう。しかり、善人なおもて…の伝で言えば阿弥陀さまもまたそうした者にこそ救いの手を差し伸べておられるはずだ。作者は「光り物身にじゃらつかす…」というモードではない者の視点で詠んでいるが、もし「光り物…」のお方が歌詠む者であったら、どんな歌を詠むだろう。いや、やはり歌の神さまはそうした者には声をかけることがないのだろうか。


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