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2018年07月19日22:56

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戦争とファンタジー

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今回の芥川賞を受賞した高橋弘希、どこかで見たことのある名前だと思ったら、大岡昇平の対談集『対談 戦争と文学と』(文春学藝ライブラリー)の巻末解説「戦争がファンタジーになるとき」を書いている人だった。なるほど、出世作の大東亜戦におけるニューギニア戦線に取材した『指の骨』が現代の『野火』とも評されたようで、そのためこの本の解説の役が回ってきたらしい。

巻末解説の「戦争がファンタジーになるとき」というタイトルは、非戦争体験者が戦争を語り継がねばならなくなった2010年代の日本におけるメディア上での「戦争」の表象のされ方、及び、そうした語りが高橋弘希の作品も含め一種の「ファンタジー」たらざるをえないことを端的に捉えていて、なかなか秀れたタイトルだと思う。

ただし、言葉の本質的な性格上、それが語られた時点で一種のファンタジーと化すのは、語る主体が体験者であろうと非体験者であろうと実は変わりはない。事実、大岡昇平自身、『野火』が一種のファンタジーであることを語っている。

言語化した時点で一種のファンタジーにならざるを得ないことにストイックなまでに意識的だったからこそ、たとえば支那事変の負傷兵を主人公にした蓮田善明の『有心』(これは蓮田自身の体験を元に書かれている)は、直接的な戦場描写を周到に避けているのかもしれない。

ここ数年、戦争を体験したことのない戦後生まれの作家たちの戦争をモチーフにした作品――『永遠のゼロ』や『この世界の片隅に』――がヒットしているが、高橋弘希の作品もこうした流れに連なるものだろう。強いて言えば、そうした作品の「ファンタジー」的性格に意識的であることが、もしかしたら、高橋弘希を他の作家と分ける特性、ないしポテンシャルになるのかもしれない。

戦争体験の世代を超えた伝え難さは、すでに50年代に顕在化していて、1959年(昭和34年)10月号の「文学界」誌上で行われた座談会で、戦後派の旗手であった大江健三郎や石原慎太郎や江藤淳は、戦中派の橋川文三が語る「戦争体験」を戦中派のナルシシズムやノスタルジーにすぎないとして批判していた。橋川はそうではなく、「戦争体験」を「世代」の問題に回収せず「歴史」の問題(歴史意識)として提示したかったのだが、その橋川の意図は大江・石原・江藤には通じなかった(橋川文三「『戦争体験』論の意味」)。もっとも橋川のいう戦争を超越者の位置に置こうとする「歴史意識」は一種の神学的・形而上学的な性格も持っているので、大江・石原・江藤らが理解できなかった理由を、単に世代間の断絶だけに帰することはできないかもしれないのだけど。

そもそも、戦争を、世代的体験を超えて語り継ぎ、歴史とするためには、一種の形而上学がどうしても必要なのかもしれない。

『対談 戦争と文学と』での大岡の対談相手の一人である古山高麗男は、短編「退散じゃ」で次のように語っている。

「もう十年もたてば、まず「軍隊を知っている」人の数は、寥々たるものになるだろう。日露戦争を知っている古老が死に絶え、やがて太平洋戦争を知っている古老が死に絶えて、帝国軍隊は、時代劇として扱われるようになるだろう。帝国軍人は善玉と悪玉に整理されて、テレビ映画などに登場して、「戦争を知らない」世代をたのしませることになるのだろう」(古山高麗雄「退散じゃ」)

そして、そんな古山の言葉に呼応するように、橋川文三は「「戦中派とその『時間』」というエッセイで次のように語っている。

「ということは結局あの戦争はあったことはあったが、なかったといっても少しもかわらないことになる」(橋川文三「戦中派とその『時間』」)

橋川の「戦中派とその『時間』」は一元的時間論と多元的時間論を対比しながら論が進められる、文章が平明な割には理解するのにすこぶる難解な一文だが、ざっくりいえば一元的な時間感覚の中で忘れ去られる「戦争体験」も多元的時間感覚の中では豊かに保ち続けられるだろう――という感じになるだろうか。

橋川のいう「歴史意識」は多元的時間感覚を前提にしてはじめて成立する性格のものなのかもしれない。ここでこれ以上、橋川の「歴史意識」について解明する余力は僕にはないが、橋川の死から30年、古山の死から10年以上が経ち、「戦争体験」を直接的に語り伝える古老がいよいよ寥々としてきたことは確かである。そのような時代に、いかにして戦争体験を「世代」を超えて「歴史」として語り継ぐか――が、いよいよ切実な主題となっていると思われるが、戦争を体験したことのない戦争文学者・高橋弘希の芥川賞受賞は、そうした時代の要請に応じたものであるのかもしれない。

ちなみに、大岡昇平は、『レイテ戦記』を書いた際に、大東亜戦争をトルストイの『戦争と平和』のような全体小説として描くことは不可能だと痛感したという。それは、戦争自体がナポレオンの時代と20世紀では、そのスケールも複雑さも次元の違うものになってしまったという事情もあるだろうけど、何より、ロシアにおける対ナポレオン戦争が勝ち戦だったのに対して、日本における大東亜戦争は徹底的な負け戦だったことが大きい――と大岡昇平は語っている。

しかし、トルストイもナポレオン戦争の体験者ではなかった。『戦争と平和』は、トルストイが生まれる前に起きた19世紀ロシアの画期となる「デカブリストの乱」の前史を探ることをそもそものモチーフとして書かれた小説である。自分が実際に体験したわけではない事件や戦争を、その歴史的な因果関係と意味を捉えるために一種の「ファンタジー」として書かれたのが『戦争と平和』という空前絶後の「全体小説」なのである。戦争という非日常の全体像を描くには、ある種のファンタジー的想像力が不可欠なのかもしれない。

『戦争と平和』で、トルストイがナポレオン戦争やデカブリストの乱の世代的体験を超えた「歴史的意味」(橋川文三)を捉えることに成功しているかどうかは僕にはわからないが、大東亜戦争の「全体像」もまた、非体験者の想像力による「ファンタジー化」という過程を経なければ、ある一つの像として捉えることはできないのかもしれない。



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