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2016年07月05日22:57

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ジョン・ライドンとジョージ・オーウェル

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英国のEU離脱にあたって、かつて「There is no future In England's dreaming♪」と歌ったジョン・ライドン先生が何かコメントを出していないかと思っていたら見つけた記事。

http://ro69.jp/blog/kojima/144959

「ワーキング・クラスの人間は昔から政府の言うことなんか真に受けてねぇよ。ワーキング・クラスは昔からこの国の世風を左右する重要な鍵だった。みんな英国民の一人として投票した結果がこれ(=離脱)だったわけ。今回のEU離脱はどういう角度から見ても、当初は経済面で苦境に立たされるだろうけど、ワーキング・クラスの人間はそれを覚悟の上で『自分達の国を取り戻したかった』んだろうね」(ジョン・ライドン)

英国的な精神の代弁者というと、他に僕は『動物農場』や『1984年』で名高いジョージ・オーウェルを思い出すのだけど、『ライオンと一角獣』という長編エッセイにおけるオーウェルの次の記述は正確にジョン・ライドンの発言に対応しているように思う。

「人は愛国心、民族的忠誠心の持つ圧倒的な力を認めないかぎり近代世界を正しくとらえることはできない。それはある状況のもとでは崩壊し、さらに文明がある水準に達すると存在しなくなるが、しかし現実的な力としてそれに比肩しうるものはない。キリスト教や国際社会主義もそれに比べれば藁ほどの力も持たない。ヒトラーやムッソリーニがそれぞれの国で権力を握った理由の大半は、彼らはこの事実をとらえていたのに対して、彼らの反対者たちはそれをとらえなかったことにある」(ジョージ・オーウェル『ライオンと一角獣』)

英国のEU離脱やトランプ現象を気の抜けたような型通りのリベラルな立場から批判したり嘆いてみせたりすることは、自分のことを「インテリ」だと思っている人ほどやって見せたがるポーズだけど、そういう御仁は一度オーウェルの次の言葉を噛みしめてみてもいいだろう。

「今日のような社会では、インテリと呼べるほどの人間が祖国に対して深い愛着を覚えるのは異例のことである。世論――といっても、インテリとしての彼が意識するたぐいの世論だが――がそれを許さないのである。周囲の人間がたいてい懐疑を持ち不満を持っているとなれば、彼もそれにならって、あるいは反撥するだけの勇気がなくて、同じ態度をとるだろう。そうなると、もっとも身近なナショナリズムを放棄しながら、しかも真に国際的なものの見方には少しも近づかないことになる。依然として「祖国」の必要を感じ、いきおい、それを外国に求めることになる。そしてひとたび「祖国」を見つけてしまえば、しばらく 前に脱却したつもりの感情に、またいくらでも浸ることができる。神、国王、帝国、ユニオン・ジャック――すべてのくつがえされた偶像が、名前を変えてふたたび立ち現れるが、その正体に気づいていないので、それをいくら礼讃しても良心の呵責を感じることはない。転移ナショナリズムは、贖罪やぎを用いるのと同じく、わが身の行ないを改めることなしに救いを得る方法である」(ジョージ・オーウェル『ナショナリズム覚え書き』)

英国のEU離脱やトランプ現象を「ポピュリズム」とレッテルを貼って嘆いてみせているリベラルなインテリは、そもそも自分たちの「国際的なものの見方」が実は単なる「転移ナショナリズム」ではないのかどうかを、一度省みてもいいのかもしれない。そうすれば、なぜ自分たちの主張が民衆の心を捉えることができないのか、それを理解するヒントくらいは見つけることができる――かもしれない。

それにしても、「経済面で苦境に立たされる」ことをモノともせずにクソ意地を張る――というのが、洋の東西を問わず「攘夷のパトス」の基本なのかもしれない。松陰先生の言葉が懐かしく思い出される。

「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」

武士は喰わねど高楊枝じゃないけど、こういう個人の損得を超えた狂ったプライドなくして、そもそも世の中の倫理というのは成り立たないような気もする。ナショナリズムの問題を単なる「ならず者たちの最後の拠り所」(サミュエル・ジョンソン)としてさっさと歴史のゴミ箱行きにしてしまえない所以も、これが形式論理を超えた心情倫理の問題と深く関わっているからではないだろうか。

――そして、経済的な損得を超えた次元での「痴の一念」こそが攘夷のパトスのハードコアなのだとしたら、アベノミクスによる経済回復を最重要の政策でありかつ最大の功績として掲げる安倍首相は、むしろ松陰的な立場からは最も忌むべき政治家ということになるのかもしれない。

長州出身の安倍首相は尊敬する人物として吉田松陰の名をたびたび挙げている。しかしでは、実際あなたの押し進めている政策は、松陰の唱えた「尊王攘夷」の志にどれだけ適っているのか、むしろ背きすらするものではないのか――この切り口の安倍批判こそ、やはり最も彼の痛いところを衝くことになると思うのだけど、大半の安倍批判派の自意識は「国際的な視点をもった意識の高いリベラルなインテリ」というものだから、現実的には安倍首相にとって痛くも痒くもない万年野党的な「無責任な粗探し」にしかならないのである。

「左翼インテリの精神傾向は、五、六の週刊誌や月刊誌からうかがわれる。これらの新聞雑誌を読んでただちに気づかされることは、全体に不平たらたらの否定的態度で、いかなる場合にもなんらの建設的意見を持っていない事である。そこには、かつて権力の座についたことがなく、今後とてもつく見込みのない人々の、無責任な粗探し以外なにもない」(ジョージ・オーウェル『ライオンと一角獣』)

「私は軍国主義に染まった雰囲気のなかで育ち、その後、五年の退屈な月日を軍隊ラッパの音が聞こえるなかで送った。いまでも国歌が奏されるときに起立して謹聴しないといささか神聖を汚したような気分になる。もちろんこれは子供っぽいことだが、「進歩的」になりすぎて、ごく当たり前の感情でさえもわからなくなってしまった左翼知識人の二の舞になるよりは、その種のしつけを受けてむしろよかったと思う。革命が到来した途端ひるんで逃げ出してしまうのは、まさしくユニオンジャックを見て一度も心が躍ったことのないような手合いなのだ」(ジョージ・オーウェル『右であれ左であれ、わが祖国』)

「こういうこと――つまり、こちこちの保守反動の徒を社会主義者に豹変させることは不可能ではない、ということ。忠誠心にはその対象をくるりと変える力が内在している、ということ。さらに、愛国心とか軍人にふさわしい徳性を人が精神的に必要としている、ということなのだ。こうしたものを左翼の腑抜けどもがどんなに嫌おうとも、それらに取って代わるものは、いまだ見つかってはいない」(ジョージ・オーウェル『右であれ左であれ、わが祖国』)

「愛国心は保守主義とはまったく関係がない。むしろ保守主義とは反対のものである。なぜなら、それはつねに変化しながら、しかもなんとなく同じものと感じられている何か、に対する献身なのだから。それは過去と未来とをつなぐ橋である。真の革命家はかつて国際主義者であったためしはない」(ジョー ジ・オーウェル『ライオンと一角獣』)

真の革命家は、常に「攘夷派」の中から現れる?

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