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2016年05月26日00:57

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人生の空籤

僕は猪瀬直樹を支持していたので、舛添要一に期待するものは元々ほとんど何もなかったし、今回の「政治とカネ」的な切り口からの舛添バッシングに関する詳細もしっかりとは追っていないので、的外れな感想になるかもしれないけど、坂口安吾が『続堕落論』で喝破していたように、そもそも、上の者がピンはねし、下の者がチョロまかすというのが、人間の社会活動・経済活動の基本なのであって、つまるところは、悔しかったら自分がピンはねできる身分になればいい――という話でしかないような気がして仕方ない。

「大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼等農民達の小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起り、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が亡びて武士が興った。農民達の税との戦い、その不撓不屈の脱税行為によって日本の政治が変動し、日本の歴史が移り変っている。人を見たら泥棒と思えというのが王朝の農村精神であり、事実群盗横行し、地頭はころんだときでも何か掴んで起き上るという達人であるから、他への不信、排他精神というものは農村の魂であった。彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、又、言い得ない。その代り押しつけられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受身のずるさが、孜々として、日本の歴史を動かしてきたのであった」(坂口安吾『続堕落論』)

「フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐してゐた高邁の政治談をこの大政治家に向つて開陳した。「私が、もし、宰相となつたならば、ですね、その責任の重大を思ひ、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲ふと共に、服も靴もぬがずに、そのままベツドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立つて、立つたまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかへて役所へ行くといふ工合の生活をするに違ひない!」と情熱をこめて語つたのであるが、クレマンソオは一言も答へず、ただ、なんだか全く呆れはてたやうな軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであつたといふ。ドガ氏も、その眼つきには参つたらしい。よつぽど恥かしかつたと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経つてから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだつたらしいヴアレリイ氏にだけ、こつそり打ち明けたのである。十五年といふひどく永い年月、ひた隠しに隠してゐたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたへたものがあつたのであらうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである」(太宰治『津軽』)

「この逸話をお話しするのがこれで何回目になるのか、私は覚えておりません。私はこの話が格別に好きなのですが、それはこの逸話が含意に富んでいて、倫理的心理的に多様な内容を持っているからで、――特にその場合私が考えるのは、ベンサムの「急進主義」に対する嘲笑の点で、これはまさに問題の核心に触れるところなのです。対話の相手はこう言っています。イギリスにお生まれになっていたら、閣下も多分急進派になって、国家行政における権力の濫用に抗して闘っておられたでしょう、と。これに対してゲーテは、メフィストーフェレスの顔付で、「あなたは私を何だと思っておられるのだろう。私が権力の濫用を嗅ぎつけて、おまけにそれを天下に暴いて見せただろうなどと言われるのかな。イギリスにいれば、そういう権力の濫用で暮らしていたようなこの私が? イギリスに生れていれば、私は金持ちの公爵か、さもなければ年収三万ポンドの僧正になっていたでしょうな。」――すると相手は、でも人生の宝籤で空籤を引いていたかも知れませんよ、何しろ空籤は多いですから、と言います。――これに対してゲーテのいわく、「いやいや、あなた、誰もが大当たりを引き当てるようにできているわけではありませんよ。一体、この私が空籤を引くような愚かなまねをするなどとお考えかな。」――これは傲慢であり、自分の人生への慢心であり、自分の高貴さへの絶対的な自信であります。ついでながら、自分がドイツに生まれドイツに暮していることを――イギリスに生まれた場合と比較して――結局は惨めなことと看做しているという点も、ゲーテのこの言葉から浮かんできます。しかし肝心なのは、どんな状況のもとでも自分は当たり籤を引き当てる人間であり、どんな状況下でも自分は生まれがよく、偉い人間であり、世間に認められるであろうし、そうした世間の腐敗に憤慨したりするのは不遇な連中にまかせておけばよいことだ、という形而上学的確信であります」(トーマス・マン『ゲーテと民主主義』)

舛添知事、2弁護士に調査依頼
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4010178
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