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2016年02月07日18:00

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「死者との戯れ」としてのロックンロール

今年は年頭から、レミー・キルミスター、デヴィッド・ボウイ、グレン・フライ、モーリス・ホワイト――と洋楽の歴史そのものともいうべき偉大なミュージシャンの訃報が相次いでいる。ロック第一世代というべきミュージシャンたちはすでに「アラセブ」なので、彼らが死を迎えつつあるのは自然なことであり殊更に驚くべきことではない。この数年のうちに、偉大なロッカーたちの死がさらにたて続くことだろう。彼や、あるいは彼の死の知らせが遠くない将来に届くのを僕は既に覚悟している。それらの訃報にいちいち驚いたり嘆いたりせず、そこに世界の「必然」の美を見出して受け止めるのが、ロックの黄金時代を担った偉大な一つの世代全体がいよいよ白鳥の歌を奏ではじめた歴史的現在に生きるオールドロック・ファンの心得であり、心意気というものである。

思えば、僕は中学時代にビートルズを聴くことによってロックへ開眼したのだけど、そのときすでにジョン・レノンは死んでいた。当時、エアチェックしたFMのビートルズ特集のカセットテープを繰り返し聴くのが日課になっていたのだけど、ある夜ベッドの中でそのテープを聴いていて、「スターティング・オーヴァー」のイントロが流れた瞬間、「ああ、この信じられないほど素晴らしい曲を書いた人はもうこの世にいないのだな」と思うと、なんとも名状しがたい切なさにとらわれ、じわりと涙がにじんだ。あるいは、あの謎の涙こそ僕の「ロック原体験」ということになるかもしれない。事の初めから、一種の「死者との対話」、さらにいえば「死者との戯れ」として、僕にとってのロックは体験されていた――と考えることもできるだろうか。夜の暗がりの中でベッドに横になりながらの「死者との戯れ」というのは、少しネクロフィリア的なものも思わせる。他界から届けられる生と死の秘儀を孕んだこの世ならぬものの声――そのような一種の神秘体験として、すでに亡くなっていたジョン・レノンの歌声は中学時代の僕を捉えていたのかもしれない。

そもそも、人間の文化自体が、「死者との対話」「死者との戯れ」の上に成立しているもののはずである。その声の主がすでにこの世に存在しなくなったときにこそ、その芸術は永遠性を獲得することになるのであり、「霊魂不滅」というあらゆる宗教を根底で支える仮説は、まさにこの「死者との対話」「死者との戯れ」に人間が感じるリアリティの上に、半ば祈りとして要請されたものなのである。ロック第一世代を担ったミュージシャンたちがすべて鬼籍に入ったときにこそ、ロックンロール黄金時代はまさに始まるのかもしれない。

 子供たちが笑ったり泣いたりする必要を感じ続けている限り
 ロックンロール黄金時代は決して終わることはない♪(Mott The Hoople/The Golden Age Of Rock 'N' Roll)
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