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2015年12月05日15:07

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『ベン・ハー』のアクチュアリティー

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子供の頃以来、久しぶりに『ベン・ハー』を観た。

あまり芸術作品を現実に引きつけて解釈し過ぎるのも野暮というものだけど、1959年公開のこの映画、改めて鑑賞して、所謂「アメリカ帝国主義」への批判が込められた映画として受け取ることができるようにも思った。当然、劇中のローマ帝国は現実におけるアメリカ合衆国のメタファーになる。

面白いのは、ユダヤ人王族のベン・ハーとアラブ人族長のイルデリムが手を組んで、ローマ人司令官のメッサーラに立ち向かうという設定。これを現実へと読み替えると、ユダヤとアラブが手を組み(!)、アメリカ帝国主義へ立ち向かう――という、なかなかスリリングな構図になる。

1948年のイスラエル建国以来、ユダヤとアラブは宗教的な理由により絶対的に敵対し合うものである――というイメージが出来上がってしまったが、イスラエル建国以前は、パレスチナでユダヤ人とアラブ人は平和に共存していたのである。そういう「忘却」されがちなイスラエル建国以前のユダヤ人とアラブ人の共存関係を、ウィリアム・ワイラー監督はベン・ハーとイルデリムの関係に託して描こうとしたのかもしれない。

映画全体としては、ベン・ハーの復讐物語を軸にして、復讐を超える信仰による「愛」の奇蹟と勝利が力強く表現されている。特に、ローマへの復讐とユダヤの独立に燃えるベン・ハーと、ナザレのイエスの教えに傾倒する恋人のエスターとの対話の場面が、この映画の思想的なクライマックスといえるだろう。

エスター「憎しみは毒ですわ。……ナザレの方が言っているのを聞いたわ。憎むより愛しなさいと。愛は憎しみより強いって。私をそれを信じるわ」
ベン・ハー「まだその時ではない」

ベン・ハー「安らぎ……愛と平和か。私だって望まないわけじゃないが、そんなものどこにある?」
エスター「ナザレの方の話を聞けば……」
ベン・ハー「ふん、説教か」
エスター「多くの人が心を癒されています。そのお声は、不思議に胸に沁みてくるの。人の声というより、まるで神の声のようだわ。こう言われたわ。“憐み深い人は幸いだ。彼らは憐みを受けよう”“平和を作り出す人は神の子と呼ばれよう”と」
ベン・ハー「何が神の子だ。家族を死の谷に放っておいて。ユダヤ人はみんな汚れている。征服者に馴染んで、性根に沁みついた卑屈と恥辱を洗い流さない限り、この国には平和も安らぎもない、この領土からローマ人を残さず追い出さない限り」
エスター「血を流しても?」
ベン・ハー「ああ、俺は戦うぞ!」
エスター「そんなことをしても何も変わらないわ! 血は血を呼ぶだけ、犬と犬が争うのと同じです。復讐や死は、新たな憎しみを呼ぶだけです。丘の上であの方は言われたわ。“敵を愛し迫害する者のために祈れ”と」
ベン・ハー「ユダヤの民が孫子の代まで苦しめられてもか?」
エスター「苦しめてるのはあなたよ! 何も分かち合うことはできないの? 愛さえも?」
ベン・ハー「君を強く強く抱きしめて、いつも感じていたいよ。……でも今は、家族も国土も奪われて、戦う以外に生きる道はない」

このベン・ハーとエスターの激しい議論は、中東問題への提言に留まらず、戦後日本における改憲派と護憲派の論争のようにも聞こえる射程を有している。

中東を巡る空爆とテロの「報復」の終わりなき連鎖のニュースに日々接している現代だからこそ、ウィリアム・ワイラー監督が『ベン・ハー』に込めた「復讐」の連鎖を断つ「愛と許し」のメッセージは、現実離れしたものであるとはいえ(現実離れしたものであるからこそ?)、胸を打つものがある。
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