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2015年03月29日23:10

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はらみ女と一人称という独善――森崎和江と松本健一

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松本健一の『右翼・ナショナリズム伝説』(河出書房新社)を読んだ。

『右翼・ナショナリズム伝説』は、ソ連崩壊、冷戦終焉の衝撃がまだ生々しかった90年代前半の世相を背景に、それまで敵対関係にあった「新右翼」を代表する一水会の勉強会に松本が講師として招かれた体験などを踏まえ、当時の段階での「新右翼」の歴史的役割の終焉を論じた本である。同世代として同じ時代を生きてきた松本なりの「新右翼」に捧げる挽歌、という趣のある一冊である。そして、この本の出版された1995年、左翼と右翼がある種の共犯関係でいられた戦後の思想的枠組みの終焉を告げるオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。

ちなみに、一水会の創設者である鈴木邦男は、70年代には松本健一のことを「殺さなければならない」と言っていたのだが、その理由と和解に至る経緯も『右翼・ナショナリズム伝説』では振り返られている。

『右翼・ナショナリズム伝説』で、松本は、戊辰戦争で倒幕派が「錦旗」を掲げ、それに対し、佐幕派が「日の丸」を掲げた故事をあげ、天皇とナショナリズムが分裂し対立する場合もあることを示して、右翼は盲目的な天皇崇拝では右翼たりえない、場合によっては明治天皇を叱りつけた西郷のように、天皇を諌める覚悟こそ右翼に求められるのだ――と、北一輝が刑死の間際に「天皇陛下万歳」を叫ばなかった含意を強調しつつ、西郷が近代日本の建国理念として掲げた「敬天愛人」の90年代以降の行方を問うている。右翼の追うべき理念を「敬天愛人」に集約させたのは、竹内好・橋川文三に親炙した「アジア主義者」松本健一の面目躍如たる結論だろう。

ところで、『右翼・ナショナリズム伝説』の「あとがき」で松本は、やや唐突に、かつて交わされた森崎和江との公開往復書簡に言及している。松本健一と森崎和江の公開往復書簡は、1977年に『伝統と現代』誌上で交わされたものである。その往復書簡で、森崎は松本に次のように語りかけている。

「私は子をはらみ、産みました。そしてこの世の、大きな欠落をみた思いでした。辺境ということばをあなたのお手紙にありますいみに使うと、妊娠出産をとおして思想的辺境を生きました。何よりもまず、一人称の不完全さと独善に苦しみました。
         (中略)
 右翼は『死』について考えることで、その思想をみがきました。イザナギ・イザナミのころから、それは正統的思考だと私は思っています。『死』を思想の原点とすることで、心とからだと村と社会と世界をつなぎ、体系化するのは、これは私たちのくにのなりたちにつながっていると思います。ですから、はらみ女には一人称が欠けているのは当然で、うつくしい文化です。
 うつくしい文化がその次元にとどまっておれなくて、近代的混乱に入ったのはなぜか、それは私にはよくわかりません。地球の自転みたいなものかしらんと思うくらいです。三島由紀夫の感性には、そのことは堪えがたい汚れとして感じとれたろうと思います」(森崎和江)

この森崎和江の言葉を、『右翼・ナショナリズム伝説』だけでなく、松本健一は三島由紀夫の「感情教育の師」である蓮田善明の評伝『蓮田善明・日本伝説』(河出書房新社)でも引用している。蓮田善明は、戦時中日本浪曼派とも共鳴し合っていた『文藝文化』の同人だった国文学者で、当時10代だった三島由紀夫の才能を見出したことでも知られる。蓮田善明は「大津皇子論」で、

「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる」(『大津皇子論』)

と若くして悲劇的な死を遂げた大津皇子に託して、大東亜戦中の若者たちの死を意味づけようとしていた。そして蓮田自身、大東亜戦敗戦直後、出征先のジョホールバルで上官を射殺した後、自決している。三島の自決も、この蓮田の「死の思想」に決定的な影響を受けたものではないかと言われている。

そんな、蓮田〜三島の「死の思想」に対して、森崎和江は一人称が不可能となる「はらみ女」という存在形式と実存形態から、「生の思想」の異議を呈しているのである。この森崎の言葉が、1977年当時31歳だった松本健一の心に「棘」のように突き刺さり、その後、松本が右翼やナショナリズムについて考える度に立ち返る一つの「原点」となっていたようである。

松本健一にとって、保田與重郎や竹内好が「思想的な父」であり、橋川文三や吉本隆明が「思想的な兄」だったとしたら、森崎和江こそが、「思想的な母」あるいは「思想的な姉」に相当する存在だったのかもしれない。
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