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2014年11月28日23:27

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松本健一の顔

松本健一氏が亡くなった。

松本氏とは、2002年に柏の麗澤大学近くのジョナサンで一度親しく歓談させていただいことがある。当時麗澤大学の松本ゼミのOBの人と付き合いがあり、松本氏を囲んでのゼミ生の飲み会に誘われてお会いする機会を得たのだった。

ゼミ生たちの下ネタに優しく笑いながら、その笑顔の裡に隠しようのない寂しさを漂わせていた表情が印象に残っている。太宰治が、


「私は先夜、眠られず、また、何の本も読みたくなくて、ある雑誌に載っていたヴァレリイの写真だけを一時間も、眺めていた。なんという悲しい顔をしているひとだろう、切株、接穂、淘汰(まびき)、手入れ、その株を切って、また接穂、淘汰、手入れ、しかも、それは、サロンへの奉仕でしか無い。教養とは所詮、そんなものか。このような教養人の悲しさを、私に感じさせる人は、日本では、(私が逢った人のうちでは)豊島先生以外のお方は無かった。豊島先生は、いつも会場の薄暗い隅にいて、そうして微笑していらっしゃる。しかし、先生にとって、善人と言われるほど大いなる苦痛は無いのではないかと思われる。そこで、深夜の酔歩がはじまる。水甕のお家をあこがれる。教養人は、弱くてだらしがない、と言われている。ひとから招待されても、それを断ることが、できない種属のように思われている」(豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説)

という文章を書いているけど、松本氏の寂しげな微笑も太宰のいう「教養人の悲しさ」を湛えていたように思い出される。また、松本氏の師事した橋川文三は、太宰治と一度だけ会ったときの思い出を次のように書いている。

「ぼくは太宰の良い読者でもなく、研究者でもない。ただ、一度だけ、なかば偶然に太宰に出会ったことがあるにすぎない。そして、太宰の作品を忘れることがあっても、その顔のイメージだけは忘れえないであろうと思っている。
 そういわせるような顔を、太宰はもっていた。
     (中略)
 ぼくは、戦前、文学少年だったことはあるが、その頃はもうそのような児戯と縁を切ったつもりでいた。戦中派らしく、生きる上のなんらの方針ももたず、そのかわり、死にそこなった者の倨傲だけをひそかな誇りとしているような人間の一人だった。したがって、太宰を畏敬すべき文学上の先輩とも思わなかったし、何らかのかかわりを将来においてもつであろう人間とも考えなかった。
     (中略)
 しかし、太宰の顔の美しさをぼくは疑うことはできなかった。美しい、というのは曖昧な感じであるが、やはりそれは美しかった。それとも、異常であったといった方が正しいかもしれないし、優しかったというべきかもしれない。ともあれ、その目鼻のつくりは、北方の古譚にあらわれる巨人族の系譜を思わせるものであったが、その毛の深い大きな手と指とは、かえって人につくすことになれた繊細な表情をあらわしていた。その血脈に流れているであろう暗い豪族的な記憶と、そのように優しい屈従的なものをそなえた人間には、およそどんな意味でも文化人的な(無恥な!)生き方は不可能なのではないか。ぼくは、太宰の顔だけを見つめながら、そのような思いをさそう人間の顔を見たことがないのに気づいていた。彼は、それがいかなる無慙な結果におわるにせよ、ただひたぶるに優しくある以外の生き方を生きえないであろうような、そうした無器用な種族であるように思われた。
 そのとき、かれが何を語ったかは忘れてしまったが、かれの語りぶりが、いたいたしいほどに陽気な好意にみちたものであったことは記憶している。そして、ぼくを見る眼ざしも、てれくさいほどに親切なものであった。
 それいらい、ぼくは、人間の優しさということを思うとき、その究極のイメージとしていつも太宰の顔を思い浮かべる。作品には好きなのも嫌いなのもあるが、いつもその背後に、その顔を思い浮かべるのが習慣のようになった。
 最近、吉本隆明から、やはり同じ時期に、太宰に会ったときの印象を聞いた。吉本は、それを、一切の世の通念の逆を、ただ考えているだけでなく、生きている人間を見たという驚異であったというふうに語った。
 ぼくが、太宰に感じたえもいわれぬ優しさというのは、吉本が感じたのと同じもののあらわれであったといえるようにいまぼくは思っている」(橋川文三「太宰治の顔」)

これは、太宰について書かれた文章の中でも特に僕の好きな一編である。橋川文三という人は、人間の「顔(相貌)」に拘って人物伝をよく書いた人だが、その特徴が「太宰治の顔」には集約的に表現されているように思う。ちなみに太宰自身、「優しさ」について河盛好蔵宛ての手紙で次のように書いている。

「文化と書いて、それに、文化(ハニカミ)といふルビを振る事、大賛成。私は優といふ字を考へます。これは優(すぐ)れるといふ字で、優良可なんていふし、優勝なんていふけど、でも、もう一つ読み方があるでせう? 優(やさ)しいとも読みます。さうして、この字をよく見ると、人偏に、憂ふると書いてゐます。人を憂へる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感なこと、これが優しさであり、また人間として一番優れてゐる事ぢやないかしら、さうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。酒でも飲まなけや、ものも言へません。そんなところに「文化」の本質があると私は思ひます。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、まけるものです、それでよいと思います。私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。まけてほろびて、そのつぶやきが、私たちの文学じゃないのかしらん」(太宰治、河盛好蔵宛て書簡)

松本健一氏は、公的な歴史からは取りこぼされた、いわば「歴史の敗者」に類する、小林虎三郎、秋月悌次郎、森崎湊、中条豊馬、夢野久作、谷川雁、といった人々の評伝を書き続けた。時代の流れの中で「優しさ」ゆえに滅びる 「滅亡の民」の事績を語り伝えることこそ「文化」である――という信念を、一種の「精神のリレー」の如く、太宰、そして師の橋川から、松本氏は受け取っていたのかもしれない。それ故に、彼の笑顔もまたひたぶるに優しく悲しげだったのではないか。

インテリ受けする人ではなかったけど、歴史の敗者に温かい眼差しを注ぎ続けた師の橋川文三の衣鉢をよく受け継ぎ、正史からは取り零されがちな人々の事績を拾い歩いた松本健一氏の著作群は、日本の近現代史を、それこそベンヤミンの「新しい天使」のような目を通して学び直そうと志す若い人たちにとって、これからも導きの星として読み継がれて欲しく思う。

評論家・松本健一さん亡くなる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3161868
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