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2013年05月18日18:50

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印象に残った歌の記録(6)

*以下すべてmixi掲載稿からの抜粋(一部補正あり)です。印象に残った歌の記録(5)は今年の3月7日の日記(※)をごらんください。
(※)http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1894990444&owner_id=20556102

山香町大字野原字小鳥雪は雨へと春をまとひて    長野なをみ

・・・朝日歌壇2013.3.18。地名の魅力で決めた一首。選者の永田和宏さんが評で書かれているように、長野さんがお住まいの大分県杵築市に「山香町大字野原字小鳥」という地がある。あるいはその地に住んでおられる作者だろうか。この地名の後に「雪」を置いたら、もう自然にそれは溶けて雨になりそうである。夢前川とか、美濃白鳥とか、若宮(東京都中野区にある)とか、椿森(千葉県千葉市にある)とか、そんな地に縁のある歌人は幸せ者だ。もうその地名だけで、歌枕という福をいただいているのだから。

天に位置占めてたしかな手ごたえを伝えくる凧甥に手渡す    後藤不二子

ありつたけの糸繰り出して乾坤をごまつぶみたいな凧とひきあふ    木村佳子

北風に頭突きくらわす少年の後に続いてゆく奴凧    麻倉 遥

・・・凧の歌3首。後藤さんの歌は東京歌壇2013.2.17。木村さんの歌はNHK短歌2013.3.10。麻倉さんの歌はNHK短歌2013.3.17。いや〜、凧の歌ってとっても爽快でいいなあ、と思ってしまった。僕も久しぶりに凧揚げなどということをまたやってみようか、と思う。ただし、良き凧揚げの歌をゲットせむ、などという邪念を滅却したうえで敢行せねばならぬ。木村さんの歌、一読、凧とわれとが乾坤をひきあっているのか、なんちゅうスケールの歌だ・・・、と思ったのだが、よくよく読めば「乾坤を」の「を」は、陽光が朝を輝くとかいうような、短歌的な「を」である。乾坤において、凧とわれとがひきあっている、ということなのだが、それでもやはり迫力のある一首である。麻倉さんの歌は、「北風に頭突きくらわす」というパワフルなフレーズにやられてしまった。さあ、さあ、わたくしも元気出さなくちゃ・・・、とうながされる歌である。

たれもたれもをらぬ座敷に掃除機をかけカーテンをひけばおしまひ    弘井文子

・・・「短歌人」2013年3月号より。お正月に家族親族が集って楽しく宴をなした様子が詠まれた6首の次、掲載7首のラストの歌。「たれもたれも」と言いながら、ついさっきまでこの部屋で飲んだり食べたり遊んだりしていたひとたちを一人ずつ思っているのである。「もう誰もをらぬ座敷に」とか言えば初句五音で収まるが、ここは「たれもたれも」がいい。結句「おしまひ」に、安堵感、充足感、そして寂寞感がうまくブレンドされている。「掃除機を/かけ」「カーテンを/ひけば」の句跨りは、同型のものが2回繰り返されるので、ウェイトがうまく分散されてあまり目立たず、うまくいっているのではないかと思う。

ころりんと雲の卵のころがりをり産みたるものの姿は見えず    花鳥 佰

・・・同前。TBSの気象予報士の森田さんが、風の起点と終点を特定するのはとても難しい、という話をされていたのをふと思い出した。この歌は雲の出来はじめのシーン。なるほど雲にも始まりがあり終りがあるのだろうが、案外、雲をそのように時系列で見るなどということはしていない。青空に、ころりん、と雲の最初の最初らしきものが生じた。雲の卵だ。卵であるからにはなにものかがそれを産んだはずなのだが、産んだものの姿は見えない、とだけ言って、かえって自然の営みの広がりや深さを感じさせる歌である。ひとによっては、「神」という語がちらっと浮かぶけれども、それは言わないことにしましょう、というような含みをも読み取るかも知れない。

白髪となりたる加藤諦三を友なき若き日に読みたりき    田中 浩

・・・「短歌人」2013年4月号より。たまたまこの4月号は「短歌と固有名詞」という特集記事が掲載されているが、加藤諦三という名も、ある年代の読者にはある角度で入ってくる固有名詞だ。僕はたしか高校生の頃に、文化放送(関東のAMラジオ局)の「セイ!ヤング」という深夜放送で加藤さんの語る言葉を愛聴していたことがあった。哲学を語る若き学徒があのような番組に登場したのはとても新鮮で、ほかの何処からも得られない言葉をラジオから聴くことができる、という喜びがあったように思う。しかし、さほどの月日の経たぬうちに、加藤さんの語る言葉はかなりうすっぺらい、と思うようになった。彼よりももっと深く世界について考えているひとたちがいるということが次第にわかってきたからだ。そして今、加藤さんはなおもラジオにレギュラーで出演している。文化放送のライバルのニッポン放送の人生相談の番組で、名回答者として人気を博しているらしい。結局、彼は心理学へ行き、そこに落ち着いたようだ。なるほどな、と思う。「白髪となりたる」には、加藤さん、結局あなたはそこへ行ってしまったのか、という思いが籠められているだろう。友なき若き者が加藤さんの本を愛読していた・・・、という光景もつい昨日のことのように感じる。旅先のユースホステルで初めて出会った者どうしが、お互いに誰を愛読しているかで相手の品定めをする、などということもあの頃にはあった。

ばらライオンめがねオルガン耳ラジオ記憶検査に脳は破裂す    高井忠明

・・・同前。僕はかれこれ1年前、母がこの種の検査を受けた場に立ち会ったことがあるので、実によくわかる。一枚の紙に「ばら」以下6つのアイテムのイラストが書かれていて、ドクターがひとつずつ指差しながら「ばら、ライオン・・・」と言う。で、その紙を伏せて、「今の6つのものを言ってください」なあんて言うのである。母はこの段階の質問にはちゃんと答えることができた。その後、あなたの生年月日は? と聞いたり、簡単な計算問題を出したりする。その後にやおら、「さて、最初に6つのものを言いましたが、覚えているかなー?」とか聞くんである。ここで6つ全部が言えるようなひとはこんな所には来ない。で、認知症のグレードが評価され、「要介護」の度数の資料となる。母はドクターの前ではおとなしく答えていたが、後で、「あの医者はひとが年寄りだと思ってばかにしてるんだよ、もう二度とあんな所には行きたくないね」と憤っていた。よろし、よろしと思った。こんな検査のやり方が何時まで続くのかはわからないが、今の時代を記録する歌である。初句〜3句、ひらがな、カタカタナ、漢字を使い分けて、いちいち「  」を使ったりせずにうまく詠まれている。

アウラアウラアウラウラウララァウララァオーラルリンダアウラウラ    和田大象

ものもらいもののあはれのものものしものがたりせむことの葉つむぐ

・・・「オーラルリンダ」(パソコンネット上の「詩客」作品欄[*])より2首。
[*]http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2013-04-19-14109.html
このところ、こういう詠み口の歌をおもしろがる気分が、リバイバルのようにわが胸内に戻って来たように感じている。こういうのはひとえに音読の楽しみのための歌である。しかし、「ウララァ」はまことにリバイバルやなあ(笑)。

魚屋のまへの幟のうなうなとはためきてをりぎを縛られて    大森正道

・・・日経歌壇2013.4.21。二読、三読してようよう「なるほど!」と思ってニヤリとさせられる歌だ。いかにも穂村弘選の欄の歌、と思う。「うなうなと」は、幟の「うなぎ」の文字とはかかわりなく独立したユニークなオノマトペとしても読むことができて、一首のおもしろさが厚塗りになっている。もしこの歌が歌会に出されたら、「ぎを縛られて」の「ぎ」にはカギカッコがあった方が良いという意見がきっと出されるだろうが、そういう常識に縛られると歌はつまらなくなる。このところうなぎが減って店じまいに追い込まれている専門店も少なくないと聞くが、そんな現実もほのかにただよわせている歌のようにも思った。

消去した詩が生きている世界では桜の色は蒼ざめたまま    佐久間雄二郎

・・・日経歌壇2013.4.28。穂村弘選1首目。「消去した詩」という語から、僕は今年の1月5日の「日々のクオリア」[※]で都築直子さんが引かれていた茂吉の《せまりたるこの決戦の様相に一億のみ民直(ただ)にいむかふ》を想起した。
[※]http://www.sunagoya.com/tanka/?p=9111
もちろん、「消去した詩」からどんな「詩」を思ってもいいのだが、「桜の色は蒼ざめたまま」にはいかにもかつての戦意高揚のための詩、その後消去されたり消去しようとされたりした詩がフィットするのではなかろうか。次の「日本の哀しみの尖に・・・」の歌ともよく呼応する一首として読むことができる。付言すれば、戦意高揚のための詩だからいけない、平和と民主主義のための詩なら良い、反原発のための詩なら良い、というわけではない。およそ文学は政治的社会的な主義主張のための道具ではないのだから、「〜〜のための」文学というのはだめなのである。このことは繰り返し言い続ける必要がありそうだ。

日本の哀しみの尖(さき)に貼りついた桜はライトアップしてはいけない    鬼川起実

・・・読売歌壇2013.4.29。小池光選1首目。僕の知り合いの女性で、桜にも海にもエロスを感じる、それは男に感じるエロスと同じものだ、と言っているひとがいる。そういう文脈では桜は歴史性を帯びずにニュートラルに美しい花として感受されているのだろう。彼女は僕よりも4、5歳若いひとだが、逆に僕よりもっと上の世代、特に戦争を直接知っている世代のひとたちにとっては、桜という花は複雑な感慨を抱かせるものとしてあったのだろうと思う。僕はその感じがうっすらとわかるような気がする、ぐらいにしか感知できないのだが・・・。たしか尾崎左永子さんは、長く桜を詠むことができず、ようよう近年詠めるようになりましたと言われていた。この鬼川さんの歌は、そこのところにエイッとメスを入れて明確なメッセージに仕立てた歌だ。あの花は闇に置け。人工の光源で照らし出して浮かれるような花ではない。なぜならばあれは日本の哀しみの尖に貼りついた花なのだから。来し方を思えよ。という歌。「尖」という語がよくも出たものだと思う。僕は朝日、読売、日経の三紙の歌壇を見ているが、今年の4月28日、4月29日という日付にふさわしい深い所からの時代批評の歌は、朝日にではなく日経と読売にあった。

【最近の日記】
たまには俳句を(39)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1902183090&owner_id=20556102
「街の記憶−−写真と現代美術でたどるヨコスカ」
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1901971818&owner_id=20556102
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