金峯神社に近付いた頃、道端に野生の鹿が一頭いた。本当に手が届く場所です。近付いても逃げる様子もなく、草を食んでいた。ここは何度も歩いているがこんなのは初めてだった。
高城山は「ツツジが城」とも「鉢伏山」とも言われ、摺鉢を伏せたような形。元弘3年(1333)、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が北条幕府と戦った時は、奧の詰城でした。
標高702m、大塔宮が吉野で挙兵された際、奥の詰城になったところ。現在は休憩所が整備され、吉野連山の眺めが楽しめます。
8時21分に登り始めて8時26分に山頂に到着しました。拍子抜けである。それでも念願の案件が達成されました。展望台の床のタイルがガタガタです。
牛頭天王社跡の直ぐ向かいに高城山があります。前から気になってました。登ってみたくてもここからどれぐらいかかるのかも分からず二の足を踏んでました。今回は登る事にしました。8時21分、登り始める。
牛頭天王とは、釈迦の説法同上である祇園精舎の守護神であったと伝えられ、日本では素盞嗚尊のことであるとなっています。当地の東方、高城山にあったツツジが城の鎮守として建立され、厚い信仰を集めていましたが、明治初年の神仏分離により、廃絶されてしま
8時19分、牛頭天王社跡に到着。といっても特に何があるという訳ではなく、説明版と石碑、そして小さな社があるだけです。
吉野水分神社の横の役行者像です。中々良いです。しばらく歩くと吉野三橋の一、丈之橋跡があります。しかし橋がかかってたであろう形跡は全くありません。
吉野水分神社別称 子守宮創立年代は不詳ですが一千年前の延喜式神名帳にすでに大月次 新嘗に案上官幣に預る旧社にて大和四処水分の第一として記され 吉野八大神祠の一社で俗に子守大明神と申されます水分とは「水配」の意味で水を程よく田畑に配分する神様で
木造 西行法師座像益田慶運作江戸・天明5年(1785)袈裟を着けた温和な老相の西行像で、西行庵に伝来したが、現在は吉野水分神社にて祀られる。ヒノキ材の一木造りで、背面の陰烙銘から天明5年、江戸の大井八右衛門定恒が願主となり、益田慶運に彫らせ
謡曲「忠信」と花矢倉謡曲「忠信」は、義経が吉野山脱出の折の忠信の勇壮の様を描いた曲である。頼朝と不和になり、都落ちしてきて吉野に忍んでいた源義経を、この山の僧兵が今夜夜討ちにするとの情報を得たので、佐藤忠信とその郎党が留まって防矢することに
この付近の標高は約五百九十米、はるか下の方にかいま見ることの出来る吉野川からは、ほぼ四百米も上ってきています。ここは吉野山第一の展望台で、いまたどってきた吉野山の町並みを眼下に、はるか右手大和と伊勢の国境いをなす高見山(1249)から左へ向って、
上千本から金峯山寺を見る絶好のポイント。ここからの景色は絶景です。さくら咲競プロジェクトなるものがあります。伊藤忠アーバンコミュニティが桜を保護する活動をしているみたいです。
御幸の芝と雨師後醍醐天皇が吉野の行宮におられた五月雨の降り続くある日のこと、大勢のお供を連れてこの辺りへ御幸されると、空模様がますます怪しくなってきました。かたわらの観音堂に入ってしばらく休まれるうちここはなほ 丹生の社にごど近し 祈らば晴
八大龍王摂社 牛頭天王社 吉野八社明神の一。 夢違観音または雨師明神である。『新葉集』後醍醐天皇 この里は 丹生の河上 ほどちかし いのらばはれよ五月雨の空
大塔宮仰徳碑の後ろ、更に丘の上、火之見櫓があります。四等三角点もあります。中千本、435.05メートルとあります。中千本は山の名前?大塔宮方の武士たちが合戦の合図の狼煙を上げた所とされています。
この大きな位牌は、後醍醐天皇の建武の中興に寄与した親王の遺徳を讃えて、皇紀2600年(昭和14年)に建てられました。
水分神社から金峯神社・西行庵へ左の坂を登るとすぐ右手が桜の展示園、しばらく行くと後醍醐天皇を吉野山へお迎えした吉水院宗信法印の墓、そして御幸の芝へと続きます。そして辰之尾の家並みを過ぎると「上の千本」です。このあたりから次第に展望のきくいい