今回は13152歩歩きました。いつもの道の駅パーク七里御浜でいつものマグロのカマと梅干を購入しました。これで2015年8月8日の日記を終わります。
徐福渡来の記(蓬莱山)第七代孝霊天皇六年秦人徐福は豪邁の始皇帝苛政を行いし為に世を遁れ不老不死の仙薬を求め献じ奉らむと帝を欺き童男童女三千を率ひ五穀百工を携えて東海に船を浮べ常世の郷熊野邑即ち飛鳥に来る。然して子孫此処に止り繁昌せりと云伝ふ
12時37分に牛鼻神社を発ち、12時52分に阿須賀神社に到着。熊野川の河口近くに位置し、「浅洲処」を守護し、航海、延命、生産、発育の御霊力を持つと言われています。第五代孝昭天皇五十三年三月の創祀と伝わり、古い記録には熊野権現は、初め神倉山に
境内に天皇陛下御即位20年、記念植樹、神宮杉とあります。天皇陛下が直接植樹した訳ではないですよね?もしかして来られたのかな?この神宮杉ってどんな杉だろう?それと境内の奥に気になる石があります。気になりますね。
2011年の台風12号の時、ここまで水が来たのですね。ここで水没という事はここいら一帯全水没という事ですか?想像を絶します。
牛鼻という字名は、貴祢谷社から見て右を右市ヶ鼻(牛鼻)、左を左壱ヶ鼻(大浜)といったことに由来するそうです。古くは熊野大権現牛鼻宮と称しましたが、時の為政者に名称の変更を命じられて、熊野牛鼻権現あるいは八幡大菩薩と称しました。その後、明治初
当社の創建は、今を去る5千年と言い伝えられ 紀州地方最古と言われる。江戸時代役牛による耕作が始まった頃より、牛の守り神として、字名にちなんで牛鼻と呼ばれるようになった。また、神武天皇東征の折に牛の鼻を繋いだとも伝えられる。日本記に日く、景行
熊野別当の子で源平合戦のおりに源義経と共に戦ったとされる武蔵坊弁慶の出身地といわれているのが紀宝町鮒田地区です。弁慶の生まれたとされる屋敷の庭にあった楠の跡に石碑を建て、弁慶の伝説を伝えています。
11時26分、森を抜けた。すると来しなに歩いた川向いの道が見えている。そのまま下山し、川を渡り、11時40分に産田神社に戻りました。
結構険しいが道は続いてます。久しく人は入ってない感じ。所々に石垣があります。まさかシシ垣?!何かが建ってた形跡もないし。そして巨石が至る所にあります。
11時4分、まないた様を発ちます。でも元の道を上がるのはちょっと…先に道?が続いてます。少し悪いですが、歩けなくもない。なので行ってみます。そのまま下山出来そうな雰囲気。
まないたさま天の真名井戸マナイタさんとよばれ婦人病に霊験ありとて地方婦女子の信仰を集めているがマナイタ(真魚板)とこの信仰のつながりは理解出来がたい。マナイタとは恐らくマナイト(真名井戸)の転訛で古くそこに水神が祭られていた為にこの信仰が生
10時57分、遂にまないた様に到着。念願のまないた様に感動。それにしてもだいぶ下りました。この行程をまた戻るのはかなり憂鬱です。
この道の一番高いところ、少し広くなった場所に来ました。前回もここまでは来たのです。ここで諦めてUターンしました。でも今回は更に周辺を探してみました。すると標識を発見。やっと見つけました。するとまないた様はここから森の中を下るのだろう。
10時43分、前回もこの辺、更に少し上迄は来たのです。そこで諦めたんです。スマホでグーグルマップ見ながら行くと、途中で明らかにまないた様を通り過ぎてしまいます。川を挟んで山の中にあるだろう事は分かるのだが、どうしても川を渡れず諦めたのです。
10時2分に産田神社を発ち、まないた様へ向かいます。ここからは歩きです。川は綺麗で気持ちが良さそうです。下の方は穏やかですが少し登ると渓谷になります。また例の台風の影響が川のそこかしこに残ってます。
「日本書紀」一書に女神伊弉冉尊がここで火の神軻遇突智を生み亡くなったので花の窟に葬ったとある。産田という名は産んだ所と伝えている。この付近では埋蔵土器が多く出土し考古学的に先史古代にわたる古さを物語っている。太古社殿のなかった時代のひもろぎ
本殿の後ろにそびえたつ鎮守の森。ここは隠れパワースポットとしても有名で、知っている方はこの森からたくさんのパワーをもらって帰るそうです。
神社の名前から見てもわかるように産田神社は安産祈願で有名な神社の一つです。戌の日に安産祈願する際には産田神社がおススメです。女性が妊娠すると安産を祈願に訪れ、この白石を後ろ向きに拾い持って帰ります。細長い石は男の子、丸い石は女の子といういわ
産田神社は弥生時代からの古い神社で、伊弉冉尊とその子の軻遇突智神を祀っている。『花の窟』が伊弉冉尊の御陵に対して、産田神社は火神の軻遇突智神を生んだがために亡くなった場所として一対的な意味合いがあり、神々が生活した古郷ともいえる。古代の神社