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2018年02月13日22:21

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佐藤忠信

謡曲「忠信」と花矢倉
謡曲「忠信」は、義経が吉野山脱出の折の忠信の勇壮の様を描いた曲である。
頼朝と不和になり、都落ちしてきて吉野に忍んでいた源義経を、この山の僧兵が今夜夜討ちにするとの情報を得たので、佐藤忠信とその郎党が留まって防矢することになり、義経主従は山を落ち延びた。
義経の鎧を身につけた忠信は高櫓に上って襲いかかる敵を射散らし、空腹を切って谷に飛び降り、なおも追いすがる僧兵を斬り払い九死に一生を得て蝶鳥の如く逃げのびたのであった。
現在この花矢倉は桜の名所であるが、防戦には格好の地形で、忠信が敵将横川覚範を討ちとったといわれるのはここである。

佐藤忠信花矢倉
この下の横川覚範の首塚で見てきたように、源義経の身代りとなって主従を落ちのびさせるために、佐藤忠信が一人ふみとどまり、追いすがる敵を切り防いだ古戦場で、ここが佐藤四郎兵衛忠信の花矢倉です。
忠信は小高いこの丘に上って、攻め寄せる僧兵、なかでも妙覚院の豪僧、横川の覚範に向って、矢を雨のようにあびせかけ、深い雪で血刀をふるって戦った、その昔のいくさの様子が、そぞろ思い起こされます。
忠信は、奥州信夫(福島市)の庄司、佐藤元治の子で、源義経が金売り吉次に伴われて、平泉(岩手県)の藤原秀衡のもとに身を寄せたときに兄継信とともに、義経の家来になった侍で、弁慶とならんで義経の片腕として、おおいに活躍したのでした。
忠信はここで攻め来る敵を追い散らした後、命ながらえて京都へ潜入し、身を隠していたところを襲われ、自殺して果てました。
年わずか二十八歳だったと、「義経記」は伝えています。
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