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2015年10月05日23:54

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焙烙街道18 覚王山新四国88ヶ所のアート

フォト

月ヶ丘の覚王山新四国88ヶ所の奥の列の西の端には石碑類が集められていた。
(写真左)
その中でも最も西端にあったのが「関東大震災横使者追悼之碑」と刻まれた
高さ4m近い板碑だった。
昔は彼方で起きた災害に対しても
隔地でこうした追悼碑を建てることもあったと知った。
ここに置かれた種々雑多な石碑のすべてに花立てが設置されていた。
石碑の東には寄せ棟の札所が並んでいる。
この88ヶ所の道路側に並んだ札所の西端には
唯一無二の造形の大きな石祠が奉られていたが(写真中)、
それは隣の堂の袖部に増築された覆い屋に納められていた。
覆い屋の柱には「番外六十三番」の表札が取り付けられている。
六十三番は愛媛県西条市の密教山 胎蔵院 吉祥寺で、
四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とするのはここだけだというが、
『四国八十八ヶ所霊場会』の公式ホームページにその由来が紹介されている。
http://www.88shikokuhenro.jp/index.html

「弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。」

ここに設置されているように水鉢がいくつかの札所には設置されていた。

六十三番の右隣には四国第六十五番の札所があった。
ここに奉られた石仏は全面がフルカラーで彩色され、
石仏というよりは3Dイラストレーションだった。

フォト

明らかに素人による彩色ではなく、プロによるものだ。
仏名も「観音さん」「弘法大師 」と書かれた大きな表札で分かりやすい。
ここは愛媛県四国中央市にある標高約430mの平石山の中腹に奉られた
由霊山 慈尊院 三角寺で、「三角」という寺院名に関して
以下のような由来が紹介されている。

「弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある『三角の池』の中の島として現存…」

なぜかその右隣には抜けていた第六十四番札所が奉られていた(写真右)。
四国第六十四番札所は石鎚山の麓に奉られた石鈇山 金色院 前神寺であり、
修験道の根本道場であることから役小角が関わり、桓武天皇も関った寺院だが、
月ヶ丘の札所は両隣の壁と同色の赤茶で妻部が塗られ、
石蔵王権現と弘法大師の石仏、そしてその基壇も
五色を意識してペイントされ、全体で環境アートしていた。
ただ、石仏は隣の観音さんや弘法大師と異なり、部分的な着彩に留まっている。
だが、使用されているペイントは隣のフルカラーの石仏と共通していた。
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