感じることさえも、コントロールされるなら、それが人間であり得ようか。合理的な判断をするために、井戸端会議の口裏合わせ。なんでこうなったかを考える日が来る前に、最大の審判は降りるだろう。誰も怒鳴り散らしはしないが、ある日突然、刑は執行される。
教えてくれる人がいるから、それをたやすく受け入れて、さもわかったように感じる。でも、本当にわかっていたかどうかは、歴史の波にさらわれるまでわからない。磨かれているのか、流されているのかわからない。酔生夢死とはこのことを言うんだろう。それが理
若草の香りに包まれて、寝転がった素朴な子供時代を、思い出している、親の背中なんて見ていなかった、ただ、そら行く雲に想いを馳せ、春先の雪解け水の行方をつなぐのが、僕の楽しみだった。もともと夢想家そういわれればそうかもしれない。唯一つだけ違って
百人いれば、百人の夢がある。おおよその夢を集めていけば、最大多数の幸福は見えるだろう。もしも万人が思うその幸福が、次の不幸につながっているとしたら、たった一人の意見でも、その意見についていくものが生き残る。調和だけを求めるなら、妥協すればい
眼には見えなくても、神様に愛されているときには、心に光を感じる。ときにやさしく、時に力強く、時に穏やかに、時に激しく。神様に生かされていることを、人一倍感じる人生。でも降り注ぐ愛に無限の変化のあることを感じる。学ばされているんだね。神様にも
過去の不幸の種があったからこその、今の幸福だったり、過去の栄光があったからこその、慢心からの転落だったり。時間がすぎてみれば、すべてはあざなえる縄の上を歩むがごとし。次の10年にいったい何が起きるかを、簡単に予測するなら、今幸福だと思うことが