日本の漫画の不思議
西洋絵画を学んでいたので、その友人と漫画の話をする場合もあった。彼らは、アートを中心とした見方で漫画を見ることが多かった。自分は、漫画少年だったので、漫画好きの少年の見方が残っていた。西洋絵画を学んでいても、漫画に対する思いは、少年の頃のそれと同じだった。だから、受けを狙った漫画や、商業主義の漫画も読んでいた。西洋絵画を学んでいた友人は、漫画に偏見がある訳ではないが、やはり、作家性が強い漫画や、アート性が強い漫画を好んでいた。彼との漫画に付いての話しは、面白かった。自分は、両方読んでいたので彼の言うことも理解できた。だが、商業主義的な漫画を否定する気は、もうとうなかったのだ。彼は、漫画の一部しか見ていないなあ、とは、考えていた。実は、画家にも、商業主義的な画家は存在する。ダリやピカソなどが有名だ。ピカソは、どうやったら売れるかを考えていた画家だ。ピカソのアート性は、売るための演出が含まれている。ダリも同じ。多くの漫画は、商業作品なので、いわば商品として生産される。アート性よりも人気が大事。作家性よりも、売れた部数が大事。一見対立しているようだが、実は、現代アートの誕生と共に、昔ながらのアート性や、作家性重視の考え方は、大きく変化した。切っ掛けは、デュシャンのレディメイドだろう。レディメイドとは、大量生産品だ。レディメイドと対になるのがオーダーメイドだ。オーダーメイドは、アート性が高まる。デュシャンは、レディメイドとオーダーメイドを同列に語った。これが、後にポップカルチャーとして注目されるようになる。お分かりだろうと思う。そう、商業主義的な漫画も、アート的、作家性の強い漫画も、同じ漫画、という考え方が生まれた。日本の国宝にも、この考え方が入っている。日本の国宝には、アートとして作られた作品という縛りはない。日常雑器が国宝に指定されることもある。作品の価値に、出自は、関係がないのだ。つまり、レディメイドだから、価値が低く、オーダーメイドだから価値が高い、というような形式張った価値判断はしない、ということ。商業主義的漫画だから、つまらなくて、アート的漫画だから面白い、なんてこともない。読んで、どう感じたのか、が大事。漫画を読んで、心を揺さぶられ、涙が止まらなくなった、こともあるだろう。フォーマットは、漫画の価値と関係がない。作品と読者との一対一の対話だ。自分がどう思ったか、それが大事。その時代の社会的価値観と、本当の作品としての価値は、必ずしもシンクロしない。本人の思いすら、作品の価値が、超えてしまうこともある。漫画で言えば、アトムなどがそうだろう。手塚治虫氏は、アトムを描くのが好きではなかったそうだ。もともと、アトムは、バトル漫画としては誕生していない。漫画家が意図しないような成長をアトムは、し始める。それが、嫌だったようだ。ちばてつや氏も、そのような発言をしていたことがあった。商業漫画は、編集者が介入する。だが、だから、その漫画がダメになるかというとそうではない。編集者の介入によって、大化けする漫画もあるのだ。作品というのは、本当に不思議。今の編集者は、新人には、自由に描かせ、ベテランには介入するのだそう。ベテランは、殻ができてしまっているので、編集者は、それを壊そうとする。どのような状況になっても、本当に素晴らしい作品は、けっしてアート性も作家性も失うことはない。
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