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2024年03月19日15:25

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3/17 池上秀畝展 高精細画人@練馬区立美術館

目も覚めるような華やかなフライヤーを手にした時から待ち望んでいた展覧会。池上秀畝はどこかで見たことがあると思うが、思い出せない。名前から想像するに荒木寛畝・十畝の弟子筋だろう。いずれにしても「高精細画人」というキャッチにぴったりな「孔雀(←)」の絵だ。
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本展は、練美以外に、長野県立美術館ほか、秀畝の生まれ故郷である伊那や高遠の美術・博物館でも巡回があるらしい。作品リストを見ると、前後期の入れ替えが10点余あるほか、長野会場だけの展示品がある。撮影は全て不可。

大型の作品が多いので、写生帖など小さなものを入れても100点以下だが、見応えがあった。
オーストラリア大使館所蔵の杉戸絵は、2枚が池上秀畝、2枚が荒木寛畝で、裏表合わせて8面、ガラスケースに入っておらずそのまま鑑賞できる。杉戸なのに保存状態も至極良好で感動的だ。
また、六曲一双の屏風《竹林に鷺図》の前には青々した畳が敷かれ、座って鑑賞できるように特別なしつらえもされていた。
小型の美術館ではあるが2時間滞在。

HPで紹介されている、練馬美・長野美の各担当学芸員の対談動画は面白いので、鑑賞前に見ておくと良いだろう。これによると、展覧会開催準備で新発見のものが続々とあったらしい(それでもまだ行方未確認の作品が多いらしい)。特に旧目黒雅叙園所蔵の壁画は七百数十点もあったとか。ああ、そういえば、百段階段には荒木十畝の間があったっけ。ここの設えには伝統的な花鳥画を描く凄腕の日本画家が集められたのだった。

池上秀畝には、同郷(長野県)同年齢の菱田春草がいるが、日本画の新機軸を打ち出した新派の菱田春草に対して、旧派にカテゴライズされた池上秀畝は昨今ではあまり脚光を浴びなくなった。しかし、文展、帝展に精力的に出品を続けていたし、「匣書手扣(はこがきてびかえ)」(商品カタログみたいなもの)は大正6年から昭和19年までの間に141冊にのぼり、14000点の譲渡記録があると言う。いかに注文の多い、人気作家だったかがわかる。とにかく、すごい!なんでも描くし、細かく手を抜かず描き込んでいる。対談動画で「花鳥画スピリッツ」「絵師気質」と言っていたが、まさしく。
入れ替えは10点ほどだが、できれば後期も行きたい。

https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202312141702545620
池上秀畝(1874-1944)は、日本の長野県出身で、1889年に画業を本格的に学ぶために東京に移ります。当時無名だった荒木寛畝(あらきかんぽ)に師事し、その最初の弟子となります。
秀畝は1916年から3年連続で文展で特選を受賞し、帝展では無鑑査や審査員を務めるなど、官展の旧派画家として名を馳せました。一方、彼と同じ年に長野県で生まれた菱田春草(ひしだしゅんそう)(1874-1911)などが牽引する「新派」の日本画とは異なり、秀畝の属する「旧派」の作品は近年まで展覧会での取り扱いが少なく、知名度は高くありませんでした。
しかし、伝統を重んじた「旧派」の画家たちは、会場芸術として、当時の展覧会で高く評価されただけでなく、屏風や建具に描かれた彼らの作品は屋敷や御殿を飾る装飾美術としても認められていました。特に秀畝は、徹底した写生を基にしながらも、「新派」の画家たちが試みた空気感の表現を取り入れるなど、伝統に拘らない日本画表現を展開しました。


プロローグ 池上秀畝と菱田春草 日本画の旧派と新派

池上秀畝と菱田春草は同じ長野県出身で同い年。春草が新しくできた東京美術学校に入学して学び、のちに日本美術院を牽引していく新派の日本画家に対して、秀畝は、荒木寛畝に弟子入りし、旧来からある師弟制度の中で研鑽する。官展出品で活躍し、「旧派」と言われたが、果たして伝統を踏襲するだけの絵師であったかどうか。

菱田春草《伏姫(常磐津)》1900年
朦朧体。
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池上秀畝《秋晴(秋色)》1907年
本人は「新派でも旧派でもない」という。美しく優しい絵だ。遠く霞む遠景が奥行きを出している。ちょっと鏑木清方に似た感じ。
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第一章 「国山」から「秀畝」」へ

「国山」の号で描いた《がま仙人》はなんと9歳の作。うむ、いわゆる天才というやつだ。

師の荒木寛畝《狸図》
寛畝といえば、三の丸尚蔵館蔵《孔雀図》が有名だが、これは油彩画。インパクト大。荒木寛畝も油彩画をやっていた時期があった。秀畝には油彩画をやめさせている。
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池上秀畝《日蓮上人避難之図》1911年
日蓮上人が迫害を受け退かれる図。右方赤く燃えるは放火された日蓮の庵。白猿たちが必死に日蓮を庇い、逃走を助ける。猿たちの様子、顔つきがなんともいい。感動的なシーンだ。上手いなぁと感嘆。
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第二章 秀畝の精華ー官展出品の代表作を中心にー

(以下、記載なければ池上秀畝作)
《初冬》1910年
第4回文展初受賞作品。構図や描き方が旧派っぽくなく、新しい世界観を生み出している。ちなみにこの展覧会で春草は代表作《黒き猫》を出品、受賞しているという。
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《四季花鳥(春・夏・秋・冬)》1918年
《夕月》《峻嶺雨後》に続いて文展特賞を3年連続で受賞。狩野永徳、山楽をよく研究したという。大幅4幅対。地色が季節によってやや違うところもまた良い。春はほわっとした金地、夏は最も濃い金地で、秋は少し墨色を足したような金地、冬は銀に近い。季節による気の違いをこんな風に出しているんだ。
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鴨を描いた《秋雨》、鴛鴦を描いた《晴潭(紅葉谷川)》、鹿を描いた《時雨》、テンを描いた《暮雪》など秋冬の光景にとても余韻があり美しい。
もちろん、明るく元気な夏も又よし。生命力に溢れているね。
《盛夏》1933年
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《翠禽紅珠》1929年
そして、鳥がまた上手いのだ。雅叙園創設者旧蔵。
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《秋日和》1934年
鏑木清方が絶賛「そのうまさを味わって倦むことなし」
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そして、メインビジュアル
《桃に青鸞・松に白鷹図》1928年
片面ずつ2枚にわたって《桃に青鸞図》《松に白鷹図》が描かれている。
建具である杉戸に描かれているのにものすごく保存状態が良い。オーストラリア大使館蔵ということだが、大使館の建物が元蜂須賀公爵邸であったことから引き継がれてきたものと思われる。
孔雀かと思った鳥はインドネシアなどに生息するカンムリセイランという鳥だそうだ。とにかく羽一枚一枚描写が細かい!これを描いた前年上野動物園にカンムリセイランがきたというから、写生をしたのではないかと。
しかも、この鳥、蜂須賀正氏氏にゆかりがあるという。正氏氏はドードーの研究でも知られ、鳳凰のモデルはカンムリセイランであるという説を唱えた鳥博士。秀畝は、鳳凰ではなく、あえて現実にいる鳥・青鸞を描くという憎いことをしたのね。
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第三章 秀畝と写生 師・寛畝の教え、“高精細画人”の礎

寛畝は、絵を学ぶには臨模と写生が何より大事と説いた。ありとあらゆる動植物を描き、人を描き、旅行にもよくいき、風景も描いた。なかでも鳥の写真はすごくて、動物園に行っては、珍しい鳥をどんどん描いていた(どうやら大型の鳥が好きだったみたい)

《くま鷹》1891年
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《写生帖》より
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《避邪之図》1910年
鐘馗様に睨まれて逃げ出す邪鬼の姿が面白い。
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第四章 秀畝と屏風 画の本分


《竹林に鷺図》1913年
薄墨と爽やかなミントグリーンの竹林に五位鷺。色数は少なく、上品だ。ここは畳敷きになっていて、座って鑑賞できる。五位鷺が左から右へと飛び立つ様を目の高さで鑑賞。そういえば、昔は板橋美術館にも畳の部屋があったよね。
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エピローグ 晩年の秀畝 衰えぬ創作意欲

旧雅叙園には、秀畝の間もあったそうだし、「静水の間」の天井絵は秀畝の手になるもの。こちら↓は神殿へのアプローチの欄間絵だそうだ。
《飛蝶》1937年
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晩年まで大きな装飾絵画に取り組んでいたのだな。バイタリティのある人だ。

4月21日まで(後期展示4月2日から)

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