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2022年11月21日23:10

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初期キリスト教信条史 J.N.D.ケリー 一麦出版社 2011年12月

https://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=5160461&id=2574153

p.99
[あなたは、全能の父である神を信じますか?]
Πιστευεις εις θεον πατερα παντοκατορα;
あなたは、神の御子イエス・キリストを信じますか?
Πιστευεις εις Χριστον Ιησουν, τον υιον του θεου,
すなわち、聖霊によって処女マリアから生まれ、
τον γεννηθεντα δια πνευματος αγιου εκ
Μαριας της παρθενου, τον σταυρωθεντα
ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、
επι Ποντιου Πιλατου και αποθανοντα,
死なれ[そして葬られ]、
και ανασταντα τη τριτη ημερα ζωντα εκ
三日目に使者の中から生きてよみがえり
νεκρων, και ανελθοντα εις τους ουρανους,
天に昇られ、
父の右に座し、
και καθισαντα εκ δεξιων του πατρος,
生者と死者とを裁くために来られるお方を。
ερχομενον κριναι ζωντας και νεκρους;
あなたは聖霊を、そして聖なる教会と体のよみがえりを信じますか?
Πιοτευεις εις το πνευμα το αγιον, εν τη αγια εκκλησια;
p.100
 すべてに先立って、すべてのものを創造し、組み立てられ、存在しないものから存在するものを呼び出したひとりの神を信じるべきである。私たちはまた、イエス・キリストが主であること、彼の神性と人性の両者についてそれがまったく真実の教えであると信じるべきである。そして私たちは、私たちの誤った行いについてはそれを罰し、善い行いについては報いられる、自由な意思を持つ聖霊を信ずべきである。この件については、人がイエスを信じるように思われても、イエスによって天における栄光がもたらされた、律法と福音によるひとりの神を信じないとしたら、この人は、信仰の最も生き生きとした条項について欠けがあると断言できる。
p.101
あるいはまた、ポンティオ・ピラトのもとで苦しまれたイエスを信じることがあったとしても、イエスの処女マリアと聖霊からの出生(を受け入れないならば)、それはまた、大きな欠けがある。
p.109
Cred in deum patrem omnipotentem;
全能の父なる神を信じます。
et in Christum Iesum filium eius unicum,
その独り子イエス・キリストを(信じます)、
dominum nostrum,
私たちの主、
qui natus est de Spiritu sancto et Maria
聖霊と処女マリアから、
virgine,
生まれ、
qui sub Pontio Pilato crucifixus est et
ポンティオ・ピラトのもとで十字架の上に死に、
sepultus,
葬られ、
tertia die resurrexit
三日目によみがえり、
a mortuis,
死から、
ascendit in caelos,
天に昇り、
sedet ad dexteram patris,
父の右に座し、
unde venturus est iudicare
さばくために来られる、
vivos et mortuos;
生者と死者を。
vivos et mortuos;
et in Spiritum sanctum,
聖霊を(信じます)、
sanctam ecclesiam,
聖なる教会を、
remissionem peccatorum,
罪のゆるしを、
p.110
carnis resurrectionem.
体のよみがえりを。

πιστενω ουν εις θεον παντοκρατορα
και εις Χριστον 'Ιησουν, τον υιον αυτου τον μονογενη,
τον κυριον ημων,
τον γεννηθεντα εκ πνευματος αγιου και Μαριας
της παρθενου,
τον επι Ποντιου Πιλατου σταυρωθεντα και ταφεντα,
και τη τριτη ημερα ανασταντα εκ των νεκρων,
αναβαντα εις τους ουρανους και καθημενον
p.111
εν δεξια του πατρος, οθεν ερχεται
κρινειν ζωντας και νεκρους
και εις το αγιον πνευμα, αγιαν εκκλησιαν, αφεσιν αμαρτιων,
σαρκος αναστασιν, ζωην αιωνιον.
…それらのうち重要なものは、第一条項における「父」(πατερα)の省略であり「体のよみがえり」の後に「永遠の命」(ζωην αιωνιον)が付加されていることである。それほど重要でない相違は、「三日目に」と「座し」の後に「そして」(και)を挿入していることである。…その内容は、確かにラテン語のRと一致しており、テキストは、上記に指摘したように5、数々の些細な点において、(κριναιがκρινειν、πνευμα αγιονがτο αγιον πνευμαなどのように)マルケルスのものとは異なっている。
p.118
ラテン語の語順から推測される「三日目」(τη τριτη ημερα)の置かれている場所が「よみがえり」の動詞の前に置かれているというような、ギリシア語の二、三の特徴が指摘された。…たとえば、「全能(omnipotentem)」とギリシア語のπαντοκρατοραは正確には同義語ではない。…「裁くために(iudicare)」という不定詞が「来るであろう」の後になっていることは、(ラテン語として)可能ではあるが、ギリシア語の用法であり、もともとのラテン語ではむしろad iudicandosもしくはut iudicetあるいはそのような類いのものであったと考えられる23。
p.119
しかしながら、Rの元来の構成に関する興味深い推論は、ギリシア語がローマ教会の公式の言語であった時代に生じたに違いないということである。…それゆえ、Rの構成を遅くとも第3世紀の初頭に帰することは妥当であるように思われる。
p.120
H
Dost thou believe in God the Father almighty?
R
I Believe in God the Father almighty;
p.121
H
Dost thou believe in Christ Jesus, the Son of God,
R
and in Christ Jesus His only Son, our Lord,
H
Who was born by the Holy Spirit from the Virgin Mary,
R
Who was born from the Holy Spirit and the Virgin Mary,
H
Who was crucified under Poitius Pilate, and died,
R
Who under Pontius Pilate was crucified, and buried,
H
and rose again on the third day living from the dead,
R
on the third day rose again from the dead,
H
and ascended into the heavens,
R
ascended to heaven,
H
and sat down on the right hand of the Father,
R
sits on the right hand of the Father,
H
and will come to judge the living and the dead?
R
whence he will come to judge the living and the dead;
H
Dost thou believe in the Holy Spirit in the holy Church?29
R
and in the Holy Spirit, the holy Church,
the remission of sins, the resurrection of the flesh.
…第一には、Hniokeru[ONLY BIGOTTEN(独り子)」や「OUR LORD(私たちの主)」のようなイエスの記述の欠如である。第二に、Hではイエスの地上での誕生を「BY THE HOLY SPIRIT FROM THE V.MARY(精霊によって、処女マリアから)」と定義しているが、Rは「FROM THE HOLY SPIRIT AND THE V.MARY(精霊と処女マリアから)」という特徴的な表現になっている。第三に、Hでは「AND DIED(そして死んだ)」(断片の版で「そして葬られた」となっているのはオリジナルではない)に対して、Rは「AND WAS BURIED(そして葬られた)」になっている。第四に、Hは「LIVING(生き)」を「FROM THE DEAD(死から)」の前に差し挟んでいる。
p.122
Hは、Rが「WHENCE HE WILL COME(そこから彼は来るだろう)(οθεν ερχεται)」としているところを、おそらく分詞(ερχομενον)にしている。第六に、HはRの「REMISSION OF SINS OR RESURRECTION OF THE FLESH(罪の赦し、または、体のよみがえり)」に符合するものがない(これらの言葉が挿入されているテキストは後代のものである)。
p.123
Rとはまったく反対のテルトゥリアヌスの信条における他の特徴は、「世界の創り主(mundi conditorem)」もしくは「万有の創造者(creatorem universitatis)」という永遠の称号、である。…
…「生きるため(LIVING)」(Hにおいて、「三日目に死者の中から生きるためよみがえり」となっている箇所)もまた「再びよみがえり(ROSE AGAIN)」に加える必要のないものとして取り除かれ、より良い結びつきという理由から、「来る(COMES)」(おそらくギリシア語のερκομενονという分詞)は、「そこから来られるであろう(WHENCE HE WILL COME)」に置き換えられたと考える。
p.125
形容詞の「独り子(ONLY-BEGOTTEN、μονογενη)」は、ケイペルが指摘するように、聖書の慣例に拠っているのであろう。…たとえば、おそらくHの中で役割を果たしていた厳密な「聖霊によって処女マリアから35」を、Rのよりシンプルな「聖霊と処女マリアから」に変更することや、それ以上に、「裁くために来るであろう(ερκομενον)」を「そこから裁くために来られるであろう(οθεν ερκεται)」に変えることによって何かを得られたと考えることは難しい。
p.126
もし、正確ではあるが、ケイペルによって描き出された人為的な紀元の説を除外するのであれば、私たちは確信をもってRの歴史を少なくとも2世紀の初めに戻すことができるようになる。
p.127
彼が述べたように、続くキリスト論は、当然二つの解れた章句になるし、おのおのは、定冠詞によって、もともとのギリシア語によって導入された(τον γεννηθενταなど、またτον επι Ποντιου Πιλατουなど)。…このように前者は、聖霊がマリアに降るであろうこと、それゆえ(ギリシア語ではδιο)彼女の子は神の子(υιος θεουまさに信条の称号である)と呼ばれるであろうと天使によって予言されたルカ1:35の言葉に基づいた神の御子であることを説明し、証拠とする。…その神学は、明らかにパウロの手紙であるフィリピ2:6以下の、なぜなら(διο9節でも再度用いられる)、へりくだって、十字架の死にいたるまで従順であったため、神は彼を高く上げ、彼にあらゆる名にまさる名を与え、すべての舌が、信条の第二の称号として、「彼は主である(ギリシア語ではκυριος)」と告白される、という点に刺激を受けたものである。…

私は全能の父である神を信じる。
p.128
そして彼の独り子、私たちの主を(信じる)。
そして精霊を、聖なる教会を、罪の赦しを、
体のよみがえりを(信じる)。
p.134
「彼らが言うには、使徒たちを含むすべての過去の教師たちは、正確に同じ教理を、今彼らが公言しているように、受け、また教えた。そして、説教の真理は、ペトロから13番目のローマの教皇ヴィクトルの時代まで、神聖なものとして保存された(τετηρησθαι την αληθειαν του κηρυγηατος)。しかし、後継者であるゼフィリヌスからは、この真理は変造された(παρακεχαραχθαι την αληθειαν)」。

 当然、著者は彼らの弁解を拒絶し、ユスティノス、ミルティアーデ、タティアヌス、クレメンスやその他の「キリストを神と宣言されるとした(θεολογειται ο Χριστος)」すべての人の文章を参考にするように命じた。…特に、「説教の真理が変造された」という表現は、テキストを損なうか、改変するかの意味で用いられた動詞のπαραχαρσσεινが用いられていることも55、これを伝えているように思われる。
p.135
また著者が、仮に「説教」が変造されたと述べたとしても、そこには信条に対する言及はなく、この文脈においてκηρυγμαは、常に、公式に具体化したものがあったとしても、定式ではなく、教会の使信の内容を意味している。彼自身は、数行後に、議論の主題を定式ではなく、「教会の信仰(του εκκληςιαστικου φρονηματος)」と定義しており、このことは、疑問を確かなものとすることができる。
p.138
 「私は全能の父なる神を信じる(εις Θεον πατερα παντοκρατορα; in deum patrem omnipotentem)」の表現からもたらされる最初の問題は、「父」と「全能」それぞれと、「神」との正確な関係に関するものである。…旧約聖書においては3、「全能の主(κυριος παντοκρατωρ、ヘブライ語でYahweh Sabaoth)」もしくは「全能の神(ο Θεος παντοκρατωρ)」が頻繁に出てくる。
p.138
時折、「全能者(ο παντοκρατωρ)」がヘブライ語の名詞のEl Shaddaiの翻訳として単独で見出される。…教父たちは「全能」を非常に頻繁に使用したが、常に単独か(ο παντοκρατωρ)「神」との組み合わせで(ο παντοκρατωρ Θεος, deus omnipotens)用いていた。
p.140
このことは、神の人間に対する父としての関係の叙述のように考えられるが、言葉の誤用(καταχρηστικως)だけである。
p.142
正確な同義語はπαντοδυναμοςである、Παντοκρατωρは、第一には、能動の言葉であり、能力だけの理解ではなく、能力の具現化を伝えている。より重要なことは、意図された基本的な概念は、「全能者(Almighty)」が包含している意味よりも広範である。Παντοκρατωρは、「すべての支配」「すべての主権」の意味である。
p.144
なぜならば、彼はすべてのことを超えて権力を行使するからである(quod omnium teneat potentatum)」。
p.145
つまり、私たちの主の独り子であるキリスト・イエスを(信じます)である(και εις Χριστον 'Ιησουν υιον αυτου τον μονογενη τον κυριον ημων, et in Christum Iesum filium eius unicum dominum nostrum)。
p.146
彼はまた、名前自身は、言語では言い表せないほどの意味を含んでいることを付け加える(ονομα και αυτο περιχον αγνωστον σημασιαν)。…たとえば、テルトゥリアヌスは、Christusは正式には名前ではなく称号であり、「油注がれた者(unctus)」を意味するものであることを指摘した40。
p.147
イグナティウスはそれに近づいて、イエスを「彼の一人の息子(του μονου υιου)」と呼んだが45、この用語自身の確かな事例は、ユスティノスの『対話』105 46、『ポリュカルポスの殉教』20 47、そして『ディオグネートスへの手紙』10 48、の中にのみある。
p.162
「教会(εκκλησια)」という用語は、ヘブライ語の「カーハール(qahal)」の翻訳として用いられている七十人訳聖書から借りてきたものであり、その名称は通常、神の前に神聖なものとして集められたイスラエルの選ばれた人々を意味している109。…
…「教会」自身のように、「聖なる民(εθνος αγιου)」という形容詞は旧約聖書に遡るし、そこでは神に関する、あるいは神に属するどのようなことにも適応されていた。たとえば、神が契約を更新されるとき、モーセに対して、彼らが神にとって「祭司の王国、聖なる国民(λαος αγιος)116」となると、人々に知らせるように教えた。
p.168
推測できるように、論争上の背景は、新約聖書やいくつかの初期の著作で好まれた「死者からの復活(αναστασις νεκρων)」がそれほど挑発的ではなかったのに対して、「肉(FLESH)」という単語の選択が、少なくとも部分的には原因となっていた。…しかし彼自身の「神の手仕事」の擁護における答弁は、パウロが意図していたのは、そのもの自身(καθ εαυτην)によってみなされていた肉のことであった、聖霊とは切り離されたものとみなされており、他の用語においては、聖別されていないものであった。
p.173
5世紀中葉に入っても歴史家であるソゾメノスは7、信心深い友人たちから、彼がニカイア信条のテキストを書きしるすことに対して「それは入会し、また秘義を伝えられ(μυσταις και μυσταγωγοις μονοις)、復唱し、聞く権利が与えられた者にのみ」との忠告を受けた。そして「入会していない者は誰でも、この文書によって照らし出されることはふさわしくない」(των αμυητων)と続けた。
p.176
MILAN (Aug.)
Credo in deum patrem ominipotentem;
Et in Iesum Christum, filium eius unicum, dominium nostrum,
qui natus est de Spiritu sancto et Maria virgine,

MILAN (Amb.)
Credo in deum patrem omnipotentem;
Et in Iesum Christum, filium eius unicum, dominum nostrum,
qui natus est de Spiritu sancto ex Maria virgine,
p.177
MILAN (Aub.)
passus est sub Pontio pilato, crucifixus et sepultus,
tertia die resurrexit a mortuis, ascendit in caelum, sedet ad dexteram patris,
inde venturus est iudicare vivos et mortuos;
Et in Spiritum sanctum, sanctam ecclesiam, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem.
MILAN (Amb.)
sub Pontio Pilato passus, et sepultus,
tertia die resurrexit a mortuis, ascendit in caelum, sedet ad dexteram patris,
inde venturus est iudicare vivos et mortuos;
Et in Spiritum sanctum, sanctam ecclesiam, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem.

(訳)
私は全能の父なる神を信じます。
また、わたしはその独り子、私たちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊と処女マリアから(もしくは、聖霊から、処女マリアから)生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しまれ、十字架につけられ(Amb. では欠如)、葬られ、
三日目に死者の中からよみがえり、天に昇り、父の右に座している。
そこから、生きている者と死んでいる者とを裁くために来られるであろう。
また、わたしは聖霊を、聖なる教会を、罪の赦しを体のよみがえりを信じます。

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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983853602&owner_id=5160461
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983859965&owner_id=5160461
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■「趣味は読書」履歴書に書いてあるのに…面接で「好きな本」聞くのは本当に違法なのか?
(弁護士ドットコム - 12月15日 10:11)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=6777855

「面接で好きな本を聞いたらいけないの?」。そんな疑問の声がネットであがっている。


たとえば、東京都千代田区にあるブックカフェ『眞踏珈琲店』は11月29日、ツイッターでのアルバイト募集にあたって、履歴書とともに「好きな本」や「人生を一変させた映画」などについての「メモワール」(思い出・回想録)も要望した。



しかし、外部から指摘を受けて、厚労省などに確認した末、翌30日に問題のある求人だったとして、募集の仕方を見直すとツイートしている。職業安定法などが収集を禁じる「思想・信条」にかかわる情報になりえるためだという。







実際、厚労省の「公正な採用選考の基本」というウェブページでは、「採用選考時に配慮すべき事項」の一つとして「購読新聞・雑誌・愛読書などに関すること」をあげている。





しかし、ブックカフェであれば、本に対して一定程度の知識や情熱を持つアルバイトを望んでも不思議ではないはずだ。



眞踏珈琲店も「今回の募集で問うているのは、自己をプロデュースする表現力や、メモワールを提出するという障壁を乗り越える力や、意欲」だったとしている。



●趣味欄に「読書」でも質問はNG?

最近では、読売新聞オンライン(2021年11月14日)のこんな記事も話題になった。滋賀県の高校生の就職活動で、今年度の面接で愛読書を尋ねられたケースが20件あり、昨年度(7件)の3倍近くになったというものだ。







記事は、その理由としてコロナ禍の巣ごもりで趣味を「読書」と答えた生徒が多かったからではないかと分析。滋賀県教育委員会は「答えなくて良いと聞いている」などと対応するよう指導しているそうだ。



しかし、読書が趣味の人にどんな本が好きかを聞くのは、コミュニケーションとしてはごく自然なことだろう。記事はヤフートピックスにも取り上げられたことから多くの反応が見られた。



本当に採用面接で本について尋ねてはいけないのだろうか。島田直行弁護士に聞いた。



●一律NGではない

採用面接において愛読書を質問することが一律NGというのは極論でしょう。労働者に職業選択の自由があるように、企業にも採用の自由があります。採用の自由のなかには、いかなる人材を選択するかについての「選択の自由」と、選択に必要な調査をすることについての「調査の自由」が含まれています。



企業は、選択の自由に基づき自社の業務に適合した人材を採用することができます。判例においても、企業が思想・信条を根拠に採用を拒否したとしても直ちに違法にはならないとされています(三菱樹脂事件 昭和48年12月12日最高裁判所大法廷判決)。



●「調査の自由」にも限度はある

企業が自社に適した人材を選択するためには、情報が必要です。そこで選択の自由を担保するために調査の自由があります。ただし調査の自由は、無制限に認められるものではありません。



求職者のプライバシー保護などの観点から、調査の内容・方法については制約を受けることになります。



職業安定法5条の4及びこれを受けての指針(平成11年労働省告示第141号)が制約について触れています。概要としては、思想及び信条に関する情報収集を原則として禁止しつつ、業務上の目的の達成に必要不可欠であって収集目的を示して本人から収集する場合には認められるとされています。



●大事なのは「業務との関係性」

「今読んでいる本は」「好きな作家は」など質問の仕方さえ変更すれば問題にならないというわけではありません。愛読書を質問する場合には、まず業務との関係性を明確にする必要があります。実際にはこういった関係性を意識することなく漫然と愛読書を質問するからこそ問題になります。



たとえば、本を取り扱う企業が求職者の趣向を把握するのは、取扱う作品との親和性を判断するうえで必要なこともあるでしょう。こういった企業が収集目的を説明したうえで本について質問することは、許容される範囲ではないかと個人的には考えています。



●そもそも「趣味」を聞く必要はあるか?

読書に限ったことではないですが、明らかに採用に関係のないことを漫然と求職者の意思に関係なく質問すると、職業安定法に基づく行政指導や改善命令の対象となることがあります。



さらに改善命令に反すると罰則を受けることもあり得ます。企業と求職者のより良い関係のためにも、いちど面接時の質問事項を見直してみてください。




【取材協力弁護士】
島田 直行(しまだ・なおゆき)弁護士
山口県下関市生まれ、京都大学法学部卒、山口県弁護士会所属。著書に『社長、辞めた社員から内容証明が届いています』、『社長、クレーマーから「誠意を見せろ」と電話がきています』『社長、その事業承継のプランでは、会社がつぶれます』(いずれもプレジデント社)、『院長、クレーマー&問題職員で悩んでいませんか?』(日本法令)
事務所名:島田法律事務所
事務所URL:https://www.shimada-law.com/


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