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2024年05月16日00:46

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玄奘三蔵がつなぐ中央アジアと日本 臨川書店 2023年12月25日

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p.40
 (10)赭羯*tsia kiɐt(871c05;水谷1971:27-28)。対応するソグド語形は在証されない。しかしペルシア語に借用された形式čākar「召使い」から、原語の形式*c'krは容易に推定できる。この語で指示される戦士集団が歴史上で果たした役割に関してはde la Vaissiere(2007:59-88)による詳しい研究がある。この語は唐代の中国語にも柘羯として借用されていた(吉田1998:43,48;吉田2007:52-54)。
 (11)赭時國*tsia zi(227c08; 871b10;水谷1971: 24)。タシケントの古い名称である。ムグ文書にはc'cw[tʃātʃ]及び派生形容詞c'cynkとして在証されている(Livshits 2015: 177)。c'cwの末尾の-wは、文字cのような長い尾を持つソグド文字が語末に立つときにしばしば添えられるもので、サイレントである。Nāfnāmakに在証される形容詞形c'cn'yも参照されたい(Henning 1940: 8,9)。禅母(*z-)の漢字「時」でソグド語のc[tʃ]を表記するのは不可解のように見えるが、必ずしもそうではない。第一に、漢語の石*ziäkに由来する液量の単位がトカラ語Bではcākとして借用されていることから理解されるように(Sims-Williams and Hamilton 2015:38)、この声母の文字はしばしば[tʃ]と発音されることがあった。第二に、ソグド語の地名の[tʃātʃ]の初頭と末尾の子音は互いの影響で異化して、末尾の方が[ʃ]に変化することがあり得た。実際、後の時代の地名のTashkentの[tāʃ]は、[tʃātʃ]から異化によって成立した地名であり(Minorsky 1970:357)、後にそれがトルコ語で「石」を意味するtaʃであると誤解された。一方、漢語で「石国」というのは、*kšの音写形である乞史の一文字をとって史国とする場合と同様に、[tʃātʃ]という発音の地名のなかの子音の一つを使って作った地名であり得る(19)。「石」の初頭の子音が[tʃ]とも発音され得たことはすぐ上で述べた通りである。
 (12)窣堵利瑟那國*suət tuo lji sɛt nâ(227c09;871b19-20;水谷1971:26)(20))。これはウスルーシャナを表す。この地名から派生した形容詞はムグ文書に'stwršnyk, 'strwšnkとして在証される(21)。末尾の-(y)kは形容詞を派生する接尾辞であろう。w[u,w]の転移はソグド語では頻繁に見られる。初頭の'-は、語頭の子音束の前に立ち、自由に発音されたりされなかったりする添加母音を表記しており、漢字による発音表記では無視される。
p.41
この音写形は、羯霜那=kšy'n'kの場合と同じように、(')stwršnkのようなaka語幹の形容詞形に対応していると考えられる。
 (13)窣利*suət lji(871a11;水谷1971:20-21)。これはソグドを意味する語であるが、ソグド語ではなく梵語の形式である。唐の礼言による『梵語雜名』では漢語の「胡」に対応する梵語として「蘇哩」と音写され、ブラーフミー文字ではsulīと表記してある(Bagchi 1929-1937: vol. 1, 77,295)。「胡」がこの時代ソグドを意味することはよく知られていて、『梵語雜名』のこの例もしばしば引用される(22)。コータン語ではソグド人のことをsūlīと言うから、その形式が梵語として取り入れられたのであろう(吉田1992:163)。コータン語の形式自体は、ソグド語のswγδyk[suγδīk]がコータン語内部の音韻変化によって成立したものであろう。これについては、コータン王国で書かれたカローシュティー文字ガンダーラ語の契約文書に現れるソグド人を表す語sulig'aも、sūlīの前段階として参考になる(23)。ちなみに『後漢書』の粟弋はswγδyk[suγδīk]の上古漢語による音写形で、上古音の形式とよく合致している。
 (14)素葉城*suo iäp(227a27)、素葉水城(871a07;水谷1971:19-20)。『新唐書』の西突厥伝や西域伝では砕葉*suâi iäpのように音写されている。雖合*swi γâpという名称も知られている(24)。対応するソグド語形は知られていないが、イスラム時代の地理書に見られるSūyābが、素葉/砕葉の原語を継承した形式で、ソグド文字では*swy'pのように表記されていたであろう。トルコ語のsu「水」とイラン語(この場合ソグド語)のāp「水」の組み合わせとみなす俗説は成立しがたい。タラスの南南西一七〇キロの所にあった地名Ispījāb(*'spytc ''p原義「白い水」)を参考にすれば、''p「水」と何らかの形容詞の複合表現であろう。ソグド語に*sw-という形容詞は在証されないが、Sims-Williams(1992:70-71)は、アベスタ語のsūra-「強い」から複合語で用いられる形式(Caland形)の*suwi-が想定されるとし、ソグド語の人名に在証される要素のsw',sw,s'wがその形容詞と関連する可能性を考えている。Sūyābは、この形容詞とāpの組み合わせ*suwiyāpに由来しているのかもしれない。
p.42
 (15)達官*d'ât kuân (227a29-b1)。これは古代トルコ語の称号tarqanに対応することが知られている。その同じ称号は達干*d'ât kân (Kasai 2014:130)とも音写される。ソグド語文献では、この称号はムグ文書や一〇世紀のTurco-Sogdian文献にtrx'nとして現れる(Gharib 1995:nos 9644,9685; Yoshida 2019:248)。その一方で、六世紀の終わり頃のブグト碑文にはtrx'nと言う形式が見つかっていて(吉田2019:30)、こちらの方が古い形式のようであり、達官*d'ât kuânの発音にもよく合う。ただ筆者にはその二種類の音写の違いが何に起因しているのか分からない。突厥におけるtarqanの役割については鈴木(2022:126-139)を参照せよ。
 (16)呾邏斯城*tât lâ sie (227c05-06)、呾邏私城*tâ lâ si (871a25-26;水谷1971:22)。対応するソグド語形は知られていない。古代トルコ語ではTalasという(Kasai 2014:130)。
 (17)(達官)答摩支*tâp muâ tsie (227b04-05)。古代トルコ語の称号であるようだが、原語を明らかにできない(25)。音写形から推定される原語の発音は[tamatʃī]であろう。Sizabul(=Istemi)可汗の使者として東ローマ帝国を訪問したManiakhの後継者はΤαγμα ταρχανで、tarqanの称号をもつTagmaであったという(Chavannes 1903:239)。Tagmaというtarqanと達干答摩支はいくらか発音が類似しているが、もしもどちらも同じ原語に基づいているのならそれはtamγačï「印璽官(?)(26)」の誤伝なのかもしれない。その場合には本来の音写語としては*答摩〈賀〉支のような形式が推定できるだろうか。
 (18)笯赤建國*nuo ts'iäk kiɐn (227c07;871b05;水谷1971:24)。六三九年の女奴隷の売買契約文書の証人の一人の出身地としてnwcknδ'kが見えるが(吉田他1988)、これ自体は形容詞で、その元になった地名*nwcknδが笯赤建の原語であろう。建でknδを表記することについては、上記(9)を参照。
 (19)縛芻河*b'iwak ts'iu (227c26;871c24;水谷1971:10)。これはオクサス河を意味する梵語形のvaksuの音写である。水谷は何故かこの梵語形を引用していない。オクサス河は、ソグド語ではwxwšw, wxwš, wxšのように表記される人名要素として在証される(Sims-Williams 1992:77)。
p.43
 (20)怖捍國*p'iwɒt γân (871b14;水谷1971:25)。フェルガナを表す。原注では怖の発音は敷發反(*p'iwɒt)であるという。フェルガナを意味する語はムグ文書にβrγ'nk, βrγ'n'kwという形容詞の形式で現れている(Livshits 2015]177)。玄奘の形式は、形容詞形のベースになった地名*βrγ'nに対応するのであろう。
 (21)伐地國*b'iwɒt d'i (227c25; 871c21;水谷1971:30-31)。水谷が示すように、この地名にはいくつかの異なる表記が見られる。筆者は白鳥の説に從って戊地*məu d'iという読みを採り、Nāfnāmakに見られるmwt'ykと同じ地名と考えた。詳しくは吉田(1993)を参照されたい。
 (22)屛聿*b'ieng iuĕt (227c03;水谷1971:22)。千泉を意味するこの形式は明らかにソグド語ではなく、古代トルコ語である。水谷は先行研究に言及して、正しく屛*b'iengが「千」を意味するトルコ語bing〜mingであることを認めている。一方聿*iuĕtについて、これが筆と同じ発音であり、しかもそれが安南漢字音のようにbutのように発音されれば、トルコ語で「泉」を意味するbulaqの音写と考えられるのではないかとしている。しかし、古代トルコ語にはyul「泉」という語が存在するので、屛聿はbing yulの音写である。このことについてはPelliot(1930)の研究がある(27)。
 (23)捕喝國*b'uo xât (227c24; 871c16;水谷1971:30)。ブハラを指示する形式である。ムグ文書とNāfnāmakにはpwx'rという表記で現れている(Livshits 2015: 187; Henning 1940: 8-9)。ソグド文字では閉鎖音の有声と無声は区別できないが、漢字による音写から初頭の子音を有声音の[b]で発音していたことが分かる。ブハラはクルトベ碑文ではnwkmytnという形式で現れている。これは『魏書』の「西域伝」に見える忸密に対応する(Sims-Williams and Grenet 2006:101)。
 (24)摩咄(達官)*muâ tuət (d'ât kuân)(227b29)。tarqanを含む古代トルコ語の称号で、玄奘のために任命された通訳兼案内役が帯びた。音写語が想定させる原語の発音は[matur]であるが、原語を明らかにできない。この形式自体に「通訳」の意味があるように翻訳されているが、古代トルコ語で対応しそうな語は見当たらない(28)。
p.44
 上では答摩支がtamγačï「印璽官(?)」の音写である可能性を考えたが、その場合には、γaを表記する漢字が失われたことになる。同じ憶測がここでも許されるなら、摩〈賀〉咄は*[maγatur]を表記していることになる。このような語は実際にバクトリア語文書にμαγατοροとして在証されている(Sims-Williams 2010:83)。これは漢字では一般に莫賀咄と音写される称号及び男性の人名要素である。伝統的にその原語としてはbaγaturが推定されている(Kasai 2014:127(29))。しかし莫賀咄は、唐代の漢語の所謂脱鼻音化以前に成立した形式で、音写語成立時の発音はmaγaturであったはずである(Yoshida 2000)。古代トルコ語でも語頭のm-とb-の交替があったに過ぎない。上記の「屛」=bing〜mingも参照せよ。
 (25)弭秣賀國*mjie muât γâ (871c06;水谷1971:28)。この地名そのものはソグド語文献に在証されないが、この地名から接尾辞-cで派生した形容詞m'ymrγcは、ソグド語資料ではインダス川上流の岩壁銘文と女奴隷売買契約文書に在証されている(Sims-Williams 1992:56;吉田他1988)。初頭の弭*mjieは原語のm'y-[mā-/may-]に対応するはずだが、ぴったり対応するようには見えない。玄奘が何故この漢字を選んでいるのか筆者にはよく分からない(30)。
 (26)葉護可汗*iäp γuo k'â γân (227a28)。可汗qaγanは玄奘の音写語ではなく、北方遊牧民の支配者を表す語として、当時既に漢語に借用され定着した形式だったと考えられる。おそらる葉護yabγuもそうであったのであろう。ソグド語文献ではx'γ'nもypγwもカラバルガスン碑文に見られる(吉田2020:225,226)。統葉護可汗の名前を打刻したコインがタシケントが見つかっている。そこでは、銘文はβγy twn cpγw x'γ'n「神なるトン・ジャブグ可汗」と読むことができる(Shagalov/Kuznetsov 2006:84)。葉護はcpγwと表記され、当時この地域では、古代トルコ語の称号のyabγuがjabγuとも発音されていたことがわかる。興味深いことに、麴氏高昌国時代の漢文文書には、西突厥から使節が高昌国に来訪したときの接待にかかわる文書が残されていて(荒川2010:57-78)、西突厥の称号の音写が見られる。それらの文書では、この称号に二種類の音写形が確認される:(i)蛇婆護*dz'ia b'uâ γuo、(ii)移浮弧*ie b'iəu γuo (Kasai 2014:121(31))。
p.45
このように、称号には古くから二種類の発音があったようだ。また、ウイグルの保義可汗(在位808-821)の時代に書写されたMahnāmagの奥書の七七行目でも、当時天山の北にいたカルルクの影響の強かったアクスの支配者はjβγwという称号であり、同じ称号が九三行目ではyβγwと表記されている(Durkin-Meisterenst 2004:198a, 373a)。チュー川流域のカルルクの領域では、この称号はjaβγuと発音されていたことが推測される。ところで「葉」という漢字には*iäp以外に*siäpの発音も存在する。現在の漢音のヨウとショウに対応する。慈恩伝の「葉護」の場合、どちらの発音で読むべきかの問題があるが、jabγuと発音されていたとしても、初頭のj-を審母(s)の漢字で音写したとは考えられないので、従来通り「ようご」と読むことに問題はないであろう(32)。
 (27)葉葉河*iäp/siäp iäp/siäp (227c08-09)、葉河*iäp/siäp (871b11;水谷1971:24-25)。これはシル川の名前である。対応するソグド語は知られていない。唐代の漢文史料では真珠河とも呼ばれている(33)。正しい音写形が「葉葉」なのか「葉」なのかの議論がある。Takata (2018)は日本に伝存する写本などを検討して、主に再読文字「ゝ」の使い方の点から、本来の「葉河」が「葉葉河」に誤解されたと主張する。そして葉(河)の原語は不明としながらも、イラン語のāpはシル川の古い名前であるIaxartes(Jaxartes)の初頭の音節に対応するとして、暗に「葉河」の読みを採用している。しかし漢語でも藥殺という音写が知られており、Iaxartesの初頭音を表す漢字一字を選ぶのなら、必ず藥を選んだに違いないから、水谷の説明には無理がある。
 写本に見られる再読文字「ゝ」の使い方は必ずしも「葉葉河」の読みを排除しないという、畏友荒川正晴大阪大学名誉教授の助言もあり、筆者はこの場合、本文批判の原則である、説明が困難な形式を本来の読みと想定すべきであるというlectio difficilior ptiorの見地から、「葉葉河」の読みを採用して原語の推定を行う。葉には二音存在するので、葉葉には都合四種類の発音が推定される:(a)*iäp siäp, (b)*iäp iäp, (c)*siäp iäp, (d)*siäp siäp。このうち(a)*iäpを想定すれば、その原語として*yapšapのような発音を推定することができる。
p.46
ところで「碧玉jasper」を意味する語は文化語彙で、諸言語によく流布している。アラビア語やペルシア語ではyašbとして現れ、ソグド語でも'yšpとして借用されている(Gharib 1995:no.2230)。キリスト教ソグド語では結婚式を意味する語には、語源的に期待される形式のbγ'nypšqty以外に、音転移によって成立したbγ'nyšpqtyが併存するように(Sims-Williams 2021:52)、語中の-pš-〜-šp-の転移が見られる。これを参考にして、本来*yašp-āp(意味は「碧玉河」)という発音であったものが、転移によって*yapšāpと発音されることがあったと想定すれば、葉葉河はそれを原語としていた可能性がある。
 筆者はこれまでたびたび、中世イラン語の漢字音写形の研究をしてきているので、漢字の音写だけから未知の原語を推定することがどれほど難しいかはよく承知している。しかもこの場合には、漢字音写形それ自体も確定していないのだから、筆者の議論は無謀な行いと批判されることも理解しているが、玄奘の音写語に対応するソグド語形を多く扱ったこの機会に、葉葉河に関して普段考えていることを述べてみた。
p.49
そうすれば、玄奘が胡王と呼んでいるのは、石萬年その人であった可能性が高いのではないだろうか。無論六二七年に出発したとしても、玄奘が伊吾で会った胡王が石萬年であった可能性は低くない。
p.52
筆者はこの史歓太が運んだ荷物が、玄奘の言う荷物だったと推定した(吉田2011a:11-14(47))。史歓太と史歓信の違いは、伝承の過程で誤写されたか、実際に荷物を運んだのが史歓信ではなく、彼の兄弟でそれが史歓太であったのかもしれない。

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■鳥山明『ドラゴンボール』を改めて読む 古典的な「面白い物語」のパターンをどう取り入れたか
(リアルサウンド - 03月17日 07:10)
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 かつてジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』のストーリーを構想した際、ジョーゼフ・キャンベル(神話学者)が提唱する古今東西の英雄譚の基底構造を参考にしたというのは有名な話だが、先ごろ急逝した鳥山明の代表作『DRAGON BALL』もまた、古典的な「面白い物語」のパターンがいくつも取り入れられている。


(参考:【写真】鳥山明が描き下ろした悟空、クリリンや、ミスターサタン、チチなど新作主要キャラ)


※以下、『DRAGON BALL』のネタバレあり。


物語のベースは『西遊記』


 たとえば、同作の初期の世界観とキャラクター造形のベースにあるのは、『西遊記』である。


いまさら説明不要かとも思うが、『西遊記』とは、唐代の僧・玄奘がインドまで経典を取りに行ったという実話をもとにした冒険譚であり、その後の娯楽作品群にも多大な影響を与えている。とりわけ日本の漫画への影響は計り知れず、『DRGON BALL』以外の作品をいま思いつくままに挙げてみれば、手塚治虫『ぼくの孫悟空』、杉浦茂『少年西遊記』、赤塚不二夫『そんごくん』、小池一夫・小島剛夕『孫悟空』、諸星大二郎『西遊妖猿伝』、漫☆画太郎『珍遊記』、さいとう・たかを『CHO八戒』など――いずれも傑作揃いだ。


ギャグやコメディ調の作品が多いのは(『DRAGON BALL』も初期の頃は、バトルよりもコメディの要素の方が大きかった)、たぶん、誰もが知っているネタとして、『西遊記』が“料理”しやすいからだろう。


また、“お宝”探求の物語――すなわち、「遠い場所へ行って貴重な“何か”を持って帰ってくる」という冒険譚も、スティーヴンソン『宝島』からルーカス、スピルバーグの「インディ・ジョーンズ」シリーズにいたるまで、エンターテインメント作品の1つの定型であり、そういう意味では、『DRAGON BALL』の主人公・孫悟空は、物語の初期においては、「どんな願いでも叶えてくれる7つの玉」を、中盤以降は、「己の限界を超えた強さ」を探し続けたヒーローだったといえるかもしれない。


しかし、あらためていうまでもなく、いくつもの冒険を通して彼が得た最大の“お宝”は、愛する家族と仲間たちである。


山田風太郎的集団バトルの妙


少年漫画を盛り上げる演出の1つとして、敵味方に分かれた主役級のキャラクターたちが集団バトルを繰り広げるというストーリー展開がある。


トーナメント戦からチーム戦までその戦い方はさまざまだが、『DRAGON BALL』でいえば、人気を決定づけた(あるいは、方向転換した)といわれる第21回「天下一武道会」以降、徐々に物語は集団バトル物としての色合いを強めていく(余談だが、その後も何度か天下一武道会は開催されるのだが、孫悟空が優勝したのは1度きり、というのも面白い)。


なお、この種の集団バトル物のルーツは、山田風太郎の小説「忍法帖シリーズ」だといわれている。むろん、さらなる源流を辿っていけば、おそらく『水滸伝』や『三国志演義』あたりに行き着くことだろうが(いずれも膨大な数の豪傑たちが次々と登場してくる物語である)、日本の漫画でいえば、横山光輝『伊賀の影丸』、石ノ森章太郎『サイボーグ009』などを経て、車田正美『リングにかけろ』が70 年代末に“ヒットのパターン”を確立したといえるだろう。


近年のヒット作でいえば、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)と『呪術廻戦』(芥見下々)の2作はいうまでもなく、『東京卍リベンジャーズ』(和久井健)や『ブルーロック』(金城宗幸・ノ村優介)のような、一見異なるジャンルに思える作品でも、実は山田風太郎的な集団バトルの要素は取り入れられている。


いずれにせよ、こうした集団バトル物には、当然、主人公以外にも魅力的なキャラクターが何人も必要であり、それぞれのキャラに固定ファンがつけば、自動的に作品全体の人気は上がっていくというわけである。


“かつての強敵が味方になる”という王道パターン


主人公が一度死闘を繰り広げた相手――それも、“悪”の側にいた存在が、別の戦いでは味方になる、という展開も少年漫画の王道である。


『DRAGON BALL』では、ピッコロとベジータがその種の代表的なキャラクターだといえるが、とりわけ前者(ピッコロ)と孫悟飯が師弟関係を育んでいくくだりは、何度読み返しても胸が熱くなる。かつて父親(孫悟空)が命を賭して戦った相手が、その息子に厳しくも愛のある修行を行う。そして、亡き父の代わりに、技だけでなく、人として大切な“何か”をも伝えていく。これほど感動的な展開が他にあるだろうか。


ニセモノが本物になる物語


黒澤明の『七人の侍』の主人公は、設定上は志村喬演じる島田勘兵衛ということになるのだろうが、じっさいに映画を観た者の心に強く訴えかけてくるのは、三船敏郎が演じた菊千代という豪快な漢(おとこ)の生き様だろう。


百姓の出自であることを隠し(勘兵衛たちには最初からバレているが)、「七人」の1人になった菊千代は、恐ろしい野武士集団から村人たちを守り、「侍」として戦死する。つまり、『七人の侍』という映画は、ある意味では、“ニセモノが本物になった話”としても観ることができるのだが、この種の物語も実はエンタメ作品の定型の1つである(よく知られているところでは、脚本家の三谷幸喜がこのテーマで繰り返し物語を書いている)。


『DRAGON BALL』でいえば、あの愛すべき“英雄”、ミスター・サタンに注目していただきたい。ミスター・サタンは、孫悟空らが出場しなくなった時期の天下一武道会の優勝者だが、人造人間・セルや魔人ブウの前では何もできない臆病者(名ばかりの世界チャンピオン)として描かれる。しかし、臆病者ではあるが優しい心の持ち主でもある彼は、実はセル戦でも魔人ブウ戦でも、彼なりのがんばりを見せて、正義の側の勝利に陰ながら貢献してもいるのだ。


とりわけ物語のクライマックス――「超元気玉」を魔人ブウに放とうにも、傷ついたベジータが危険区域にいるためなかなか放てずにいた悟空をフォローするため、ミスター・サタンが見せた勇気ある行動は、多くの読者の胸を打ったことだろう。その姿を見て、悟空もいう――「やるじゃねえか サタン!!! おめえはホントに 世界の…救世主かもな!!!!」


そう、この瞬間、ミスター・サタンは真の意味での世界チャンピオンになったのである。


以上、いささか簡単にではあるが、『DRAGON BALL』に見られる「面白い物語」のパターンをいくつか紹介した。周知のように、同作は長い連載の中で、コメディ調のトレジャー・ハンティング物(『西遊記』のパロディ)から、トーナメント戦による格闘物、そして、この世とあの世を巻き込んだ宇宙規模のスーパーバトル物へと変化していったわけだが、終始、作品の核の部分がブレなかったのは、作者がこうした「物語の定型」や「少年漫画の王道」を理解したうえで、キャラクターたちを自由に動かしていたからではないだろうか。鳥山明といえば、何かと「漫画の表現を革新した作家」として語られがちだが(そして、それは間違いではないのだが)、それと同時に、「基本」に忠実な物語の作り手でもあったのである。


トップ画像:コピーライトバード・スタジオ/集英社・東映アニメーション


(文=島田一志)


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