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2018年06月17日20:34

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名古屋市牛牧遺跡29 さざれ石と祓い歌

市場白山神社表参道の西側、少し、視覚から反れた場所に
忠魂碑が頂きに立っている塚がある。

フォト

この神社は情報量が多いこともあって、最初にやって来た時には
この塚の尾根、忠魂碑の裏面に石像が隠れていることに気付かなかった。
しかも、文字碑なども目に付かず、
ただ石が積まれているようにしか見えなかった。
しかし、表参道から少しその丘の方に外れれば、
それが御嶽神社であることには気付いたはずだ。
その塚はコンクリートで地面が固められ、
裾の縁もコンクリート壁の垣根が巡らされていた(写真左)。
しかも、今回は複数ヶ所で目にして来たさざれ石が、この丘でも
麓や頂上下など、複数ヶ所に置かれていることに初めて気付いた。
この塚は一見、忠魂碑の塚だが、隠れ御嶽神社でもあった。
この御嶽神社の尾根に設置された朱色の目立つ涎掛けと
帽子を与えられた石像は膝小僧を出した役行者だった。

フォト

その役行者像の足元や、そのすぐ下には
大小複数のさざれ石が置かれていた。
通常、さざれ石は美濃産の
石灰で固まっているのが表面だっているものが多く、
白っぽいものが多いのだが、
今回、守山区で連続して見たことで気付いたさざれ石は
いずれも代赭色っぽい粘土質の塊で、
“さざれ石”を意識したものとは思わないものだったのだ。
もう一つ、連続して複数ヶ所で見て来たことで気付いたのは
御嶽神社の塚に人工的な小さな渓谷が設けられていることだ(写真中)。
しかもここの“渓谷”には水を流し落とすための細いバイプが
張り巡らせてあった。
こうした人工的な渓谷を神社や真言宗系の経歴のある寺院で見かけた時には
かつては滝行が行われていた場所であることが
判るものばかりだったのだが、
守山区の御嶽神社で気付いた渓谷は滝行ができるほどのスケールは無く、
あきらかに渓谷のフィギュアともいうべきものだった。
そして、ここの“渓谷”には、役行者、さざれ石、渓谷とのもう一つの
セットともいうべき要素、不動明王像が渓谷脇に奉られていた(写真右)。
この小型の不動明王像脇には、
まだ瑞々しい榊が純白の榊立に生けてあって、
ちゃんと奉っている人がいることが判る。

ところで、「さざれ石」の由来は以下の10世紀に編纂された
古今和歌集の中の詠み人知らずの一首にあり、

「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

明治13年に「我が君は」の部分が「君が代は」に変更され、
雅楽奏者の林広守が曲に起こし、
ドイツ人音楽家フランツ・エッケルトが西洋風和声を付け、
国歌として用いられた。
何故、「我が君は」を「君が代は」に変更したのかというと、
本来の「君」は「夫婦」を意味したもので、
「君主」を意味した言葉ではなかったからだと思われる。
現在の「君(きみ)」は「君主」と
「君主に由来する意味」を指す言葉として使用されている。
しかし「君」をなぜ「きみ」と訓読みするかという由来は
明らかになっていない。
しかし、『ホツマツタヱ』は「君(キミ)」の語源を
イザナキの「キ」とイサナミの「ミ」を合わせ、
「夫婦(めおと)」を意味したものとしている。
このことからすると、『君が代』の元歌の「我が君は」は
「我らの(新婚)夫婦は」の意味で、ふたりの夫婦生活が
末長く続くようにという願いを込めた歌ということになる。
この「夫婦」を「天皇の代」に変更して国歌としたのだと思われる。
「我が君は」が古代から「我が天皇は」の意味だったなら、
つまり、天皇に対して詠った歌なら、わざわざ詠み人知らずの歌を
歌集に勅撰するというのは考えにくいのではないだろうか。
ともあれ、天皇の代(日本)が長く続くようにとアレンジされて
国歌となったこの歌は敗戦によりGHQが斉唱を禁じたため、
平成11年になるまでは正式に国歌として制定されていなかった。
第一回東京オリンピックで斉唱された『君が代』は
慣習として斉唱されただけだったのだ。
ところで、「和歌」の起源は記紀史観では素盞嗚尊が
以下の歌を詠んだのがはじまりであるとされている。

「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」

しかし、『ホツマツタヱ』には和歌に関して
素盞嗚尊(ソサノオ)が
和歌の名手だった姉の稚日女尊(ワカヒルメ←ワカヒメ)に
和歌がなぜ五七調なのかを問う段が記載されている。
つまり、和歌の形式の理由を知らないソサノオ(幼名ハナキネ)が
和歌を発明した訳が無いのだ。
『日中古代詩歌の音数律に関する二問題点』
(九州大学言語文化部/継平 武)の
「和歌は一拍何音?二拍子で詠むか?」の項目(P141)に
こんな解説がある。

「日本人が一息で十二個の仮名しか発音できないという科学的な統計は和歌の五七、七五音調を形成する重要な要因の一部を裏付ける意義をもっていると思う。十二音(※和歌の五七合わせた音数)は日本入の生理的条件で決められた一呼吸内で発音できる最大音数である。言換えれば、臼本人は発音するとき十二音を越えると息を換えなければ呼吸が苦しくなる。」※=AYU注

この意見はジョン・レノンの書く詞曲が、
明らかに一呼吸の長さを意識しているのと、相似だ。
その効果は心を落ち着かせる呼吸法に通じており、
試合前に対戦者が国歌を斉唱して呼吸を整えるのは理に適っている。
このことは「5と7は聖数であり…」という系統の説明より納得がいく。
しかし、『ホツマツタヱ』(天の巻1 キツノナトホムシサルアヤ)で
ワカヒメ(稚日女尊:ワカヒルメ)は
ハナキネ(ソサノオの幼名)に和歌が五七調である説明をこう語っている。

「それはアワの節(ふし)です」

「ア」は「天・父・陽」を意味し「ワ」は「地・母・陰」を意味します。
ハナキネは重ねてワカヒメに問います。

「それでは何故、祓いの歌は32文字(※陰5・7・6・7・7=例:『君が代』)で、一般には31文字(※陽5・7・5・7・7=一般の和歌)なのですか」※=AYU注

つまり日本国歌には魔を祓う効能も存在するのです。
ハナキネの新たな問にワカヒメはこう答えています。

「和歌の31文字は大変理にかなっていて、天を巡る地球の公転は一年を356日で回ります。この一年を四季に分け、又、上旬、中旬、下旬に分けると、約31となりますが、月の方は少し遅くて30足らずです。しかし真(まこと)は31日です。五月から八月の間は約31日強となり、後が先に掛かるので32日にもなります。この変則の間(ま)を窺(うかが)う汚(けが)れや、災いを祓う歌の数が32です。
 美しく四季られた敷島の上に人として生を受けた私達は、男子は31日目に産土神にお礼参りをし、女子は32日目にお礼参りをするのも、この地の恵みに感謝するためです。これにより敷島(大和国)の道をワカ(和歌/沸:繁栄)の道と言います」

月の満ち欠けと人間の呼吸が関係していることは知られていますが、
ハナキネの答えには
暦(宇宙の原理)が人間の呼吸と関係していることが示唆されています。
さらに、「仕切り」の語源が「四季」であることも含まれている。
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