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2018年06月15日23:15

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名古屋市牛牧遺跡28 山神とコノハナサクヤヒメ

市場白山神社渡り殿の東西両側に、
トタン葺神明造の同じ規格の社が祀られている(写真左)。

フォト

この守山白山古墳内に奉られている社の中で
社名が表示されていないのはこの2社だけなので、
由緒書板碑にリストアップされている境内末社の中から
社名が表示されている末社を引き算して行くと、
秋葉社と金刀比羅社が残った。
表記順からすると、東側の社が秋葉社、
西側(写真左)の社が金刀比羅社だと思われる。

さらに、拝殿の東西の両脇にも3社の境内社が祀られていた。
西側に2社が祀られており、拝殿側には短い石段の頂点に
「山神」と刻まれた石碑が祀られている。

フォト

この山神社は3社の山神社が合祀されたもののようで、
以下の遷座元の記録が残っている。

・1889年(明治22年)3月11日、字市場1113番から遷座
・1889年(明治22年)3月12日、字市場974番から遷座
・1889年(明治22年)3月12日、字市場1041番から遷座

この山神碑の脇には根本からVサインのように二股に別れた
ムクノキが幹を延ばしている。
この古墳にムクノキが多いのは何か理由があるのかと、調べてみたところ、
漢字表記の「椋(ムク)」の読みは
国訓(日本特有の“読み”と意味)であり、
中国では“チシャ”という同定されていない
別の植物(樹木を含めて3種の候補)を意味するようだ。
椋(ムク)としては日本、朝鮮、台湾、中国に分布し、
列島では本州から九州、屋久島、種子島、沖縄島にも分布するが、
琉球列島ではまれだと言う。
つまり、この古墳上に多いのは特別な理由は無さそうだ。

山神社の石段の麓の左(西)脇には瓦葺棟入で木部を赤銅色に染められた
覆い屋があり、屋内には素木の社が収められていた(写真中)。
覆い屋の柱には「天王社」の表札。
由緒書には「社町北一八の天王社」と記載されている。
おそらく、この地域に複数の天王社が祀られていたことから、
住所が社名に冠してあるのだろう。

拝殿の東側に廻ると、山神社の石段とは異なる、急な石段の上に
銅板葺の小社が祀られていた(写真右)。
石段の麓には「浅間神社」と刻まれた社号標があり、
石段脇には石像の献燈台が設置されている。
この浅間神社も2社が合祀されたもので、
やはり、以下の遷座元の記録がある。

・1878年(明治11年)7月21日、字北山から遷座
・1878年(明治11年)字町北から遷座

記紀史観によるなら、市場白山神社拝殿の左右には
以下の親子が祀られていることになる。

 ・山神社=大山津見神
・浅間神社=木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)

コノハナサクヤヒメは『ホツマツタヱ』では
アシツヒメの称え名となっており、
アシツヒメはコヤスカミ(子安神)、アサマ(朝間)の別名を持っている。
「コノハナ(子の花)」とは「白子宮の桜(シロコの花)」の意で、
お腹の子をニニキネ(ニニギ)に他人の子と疑われ、
潔白を証明するために生まれた子とともに室に入り火を放つが、
白子宮の桜は咲き続け、潔白を示した。
「白子宮」は「潔白の子の宮」の意だ。
一方、オオヤマスミ(大山津見神)は個人名ではなく
大山(神奈川県伊勢原市)周辺の地を知行する国守の世襲の名。
オオヤマスミのマウラ(天津麻占)が
アシツヒメ・イハナカヒメ(磐長姫尊)姉妹の父親である。
マウラはサカム(さがみ)の小野に新田を成し、そこに橘の木を植えて
初代の「タチバナの君」となった。
橘の木はクニトコタチの代(トコヨ)の表徴であり、
マウラがクニトコタチの子孫であることを示している。
一般に大山津見神が山神とされているが、
山神の祖は国常立尊であることが解る。
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