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2018年06月12日22:16

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名古屋市牛牧遺跡26 シラヤマヒメ

市場白山神社の石段を上がると、細かな砂利を敷きつめた参道が
一直線に奥に延び、その入口に石造の二ノ鳥居がある(写真左)。

フォト

この参道の伸びている部分が前方部に当る。
参道の突き当たりには銅板葺平入の拝殿が
玉垣を巡らせた土壇上に設置されているが,
この拝殿〜本殿に至る社殿の設置されている部分が
後円部に当っているのだろう。
石段は土壇に上がる石段と
拝殿に上がる石段が重なっており、濡れ縁まで上がれるようになっている。

フォト

境内に掲示されている由緒書き板碑の「白山社祭神」の項には
以下のようにある。

「主神 菊理媛命
 合祀 八幡社、神明社、熊野社、津島社、洲原社」

洲原社(すはらしゃ)に関しては美濃市に本社のある神社で、
白山信仰の対象になっている神社だといい,
主神である菊理媛命が間を取り持った二柱,伊邪那岐命・伊邪那美命と
大穴牟遅神を祀っている神社だ。

この拝殿の設置されている土壇の石垣の組み方が、
尾張では旧い神社で時折見かける、石垣より少し石塚に寄った造りで、
石垣を垂直に上方に積もうとしてなくて,
思い切り麓の石が前に突き出している(写真中)。
その石を机代わりにして願でも掛けている人がいるのか、
石の上に瓶子など、複数の土器が置かれていた。
拝殿の濡れ縁を左側(西側)に廻ると、
拝殿の裏面には銅板葺ガラス格子窓の付いた渡り殿、
銅板葺神明造の本殿が連なっているのを観ることができる(写真右)。
渡り殿の奧側と本殿は、規模のわりには全高が高く、
本殿は素木の板垣に取り囲まれている。
由緒書き板碑の長い「縁起」の中で目に付く項目を要約すると、
以下のようにある。

「・守山は昔は森山と書いたが慶長(1596〜1615年)の頃より守山と書くようになったと云わる
 ・白山社は菊理媛命を元正天皇の養老年間(717〜724)加賀の国より勧請すと云わる
 ・小幡領主山田次郎重忠(?〜1221)が中興し、大永寺領主岡田伊勢守(?〜1530)が再興。弘治元年(1555)守山城主織田信次が社殿を建立、後、織田信次(?〜1574)が再興するなど武将の崇敬が厚かった。
・慶長年間(1596〜1615)の大洪水、寛文二年(1643)五月の大地震、明和四年(1767)の大洪水、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風に大被害を受けた。さらに、昭和四十五年(1970)不審火により神殿が消失、翌昭和四十六年(1971)再建された」

『ホツマツタヱ』(天の巻4 ヒノカミノミツミヤノアヤ)に
菊理媛命の別名シラヤマヒメに関る記述がある。

「      イツルワカヒノ ※イツル=出づる ワカヒ=若日(赤日) 
 カカヤキテ シラヤマヒメハ 
 ウフユナス アカヒコクワニ ※ウフユ=産湯 アカヒコ=宇迦御魂神
                クワ=桑
 ヒクイトオ ナツメカオリテ ※ヒクイト=引く糸 ナツメ=夏之売神
 ウフキヌノ ミハタテマツル」※ウフキヌ=生絹 ミハ=御衣

シラヤマヒメはアマテルの産湯を用意した人物であり、
アマテルが初めて発した言葉を聞き切ったことから
『キクキリヒメ(聞く切り姫)』の別名があり、この名前から
「菊理媛命」に転訛されたものと思われる。
「アカヒコ(赤日子)」はウケミタマ、ワカムスビの別名。
「赤日」は「明るい日」と同義。
蒲郡市(愛知県)赤日子神社(あかひこじんじゃ)の社名は
「アカヒコ」の名では登場しない記紀では読み解けない。
したがって、赤日子神社の主祭神にアカヒコの名は見えず、
彦火火出見尊・豊玉彦命・豊玉姫命の三柱に書き換えられている。
「ワカヒ」は「旭(あさひ)」を「アカヒコ」に掛けた言葉だと思われる。
「カイコ(蚕)」は「アカヒコ」の名に由来する名称とする説がある。
ナツメ(夏之売神)は『ホツマツタヱ』以外では
『古事記』に名前だけ登場する神だが、『ホツマツタヱ』では
アマテル、アシツヒメ(コノハナサクヤ姫)、クニテル(国照)、タケテルの
産着を仕立てた人物として登場している。
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