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2018年06月06日21:19

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名古屋市牛牧遺跡20 尾張連の祀った大苫辺命

牛牧遺跡の北西860mあまりの場所、川村町に川島神社が祀られている。

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標高は牛牧遺跡より8mほど低い場所だ。
ここにやって来たのは3度目だが、
いつも東北東側の路地に面している社頭の玉垣沿いに
違法駐車の車が置かれている。
社頭の鳥居は石造の八幡鳥居。
玉垣は巨石を組んだ1.2mほどの高さに組んだ石垣の上に巡らされている。

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縁石を並べて広い踏み面を4つ重ねた砂地の階段の
3段目に設置された鳥居をくぐると、
右手奥に鉄筋造の拝殿が位置している(写真左)。
拝殿は尾張では標準的な建物で、この神社特有の要素は見えない。
社頭に掲示されていた『川島神社 由緒』によれば、
主祭神は以下の6柱で、由緒書がある。

伊邪那美命            須佐之男命 
大苫辺命(オオトマベ)      日本武尊
誉田天皇(ホムタノスメラミコト) 大山津見命

「社伝によれば、807年(大同二年)尾張連沖津(オワリムラジオキツ)が
創建したと伝わっている。
 〈縁起式神名帳〉に〈川島神社〉と記載され、尾張国山田郡十九座に数えられる。
 創建当初、守山の東山の麓、白沢川新堀割の落下口近くにあり、その後川村集落の西の地(元宮)に移り、さらに現在の地に遷座された。現在、神社の西方約1kmのところに元宮という地がある。昔は熊野宮とも称され、江戸時代には〈熊野大権現〉〈熊野十二所権現〉と崇められた。
 この一帯は昔から庄内川の恩恵を受け、農作業の盛んな地であり古くから農業の守護神として崇敬されていた。〜以下略〜」

熊野宮と称されたのは主祭神の伊邪那美命に由来するものだろう。
創建者「尾張連沖津」は川島神社由緒にしか見えない人物だが、
川島神社の旧い由緒には「尾張連沖津」ではなく、
「尾張連の祖沖津」と書かれている。
「尾張連沖津」と「尾張連の祖沖津」では意味が異なる。
川島神社の現在の主祭神は上記6柱だが、
旧い由緒では伊邪那美命、大苫辺命となっており、
他の4柱は後に合祀されたものと思われる。
大苫辺命(意富斗能地神/大斗乃弁神)を主祭神として祀っている神社は、
ここ川島神社の他には以下の4社くらいしか見当たらない。

・染殿神社(宮城県宮城郡)
・波須波神社(島根県出雲市)
・宅宮神社(徳島県徳島市)
・宮浦宮(鹿児島県霧島市)

しかし、この4社の場所は、尾張連と関わりがあるとは思えない場所だ。
だが、名古屋神社ガイド(https://jinja.nagoya/)という
ウェブサイトによれば、弥彦神(天香山命)と小百合姫の間の御子に
沖津世襲命(オキツソヨ)という人物が存在し、
尾張連沖津とは
沖津世襲(オキツソヨ)のことではないかということが解ってきた。
この人物は尾張連の祖とされている。
しかし、
沖津世襲は『先代旧事本紀』では尾張氏四世の孫とされている人物で、
沖津世襲が尾張連世襲だとすると、
川島神社の807年創建は数百年新しすぎることになる。
そして、主祭神の大苫辺命は
『玄松子の記憶』(http://www.genbu.net/)には
多くの別名とともに、こう紹介されている。

「天地開闢の神々の一柱。

 『古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第五の神。 意富斗能地神と大斗乃弁神(※大苫辺命の別名)は、最初の男女の神。

 『日本書紀』では、天地の最初に生まれた国常立尊、国狭槌尊、豐雲野尊、 埿土煑尊・沙土煑尊に続いた神世七代の第五代の神。

 意富斗、大斗は「大所」。大地が凝固した時を神格化した神。」
                             ※=AYU注

大苫辺命が宮城県、徳島県、鹿児島県に祀られていても
不思議ではないことが解ってきた。
それでは大苫辺命は特に尾張連と関係があるわけではないのかと言えば、
もちろん、そうではない。
なぜなら、大苫辺命は
籠神社(このじんじゃ)の奥宮・真名井神社の磐座主座の相殿に
『日本書紀』にある「神代五代神(かみよいつつよのかみ)」として
祀られているからだ。
真名井神社では「神代五代神」の内容を
大戸之道尊(オオトノジ)&大苫辺尊の男女セットの神としている。
籠神社社伝によれば、神宮の外宮主祭神・豊受大神は
現在は籠神社の相殿に祀られているが、
神代には真名井神社に祀られていたという。
籠神社は海部氏(あまべし)が
始祖の彦火明命(ヒコホアカリ)を祀った神社だが、
社家には彦火明命から第32世の田雄までに至る『本系図』が残っている。
一方、『旧事本紀』には『尾張氏系図』が記載されているのだが、
その内容は彦火明命から第14世までの系図が
『本系図』と一致しているという。
『旧事本紀』のこの項が正しければ海部氏と尾張氏は
ともに彦火明命の子孫である同族ということになり、
尾張連が尾張に大苫辺命を祀っても不思議は無いのだ。
ただ、問題は男女神セットで祀るのが基本だとされている神の
女性神(大苫辺命)だけを、しかも同じセットで祀られるのが基本の
女性神・伊邪那美命と一緒に祀っているのは何故なのかという疑問が残る。
すごく単純に考えるなら、
大苫辺尊が真名井神社の相殿に祀られていることからすると、
海部氏の一族・大戸之道尊に尾張連から大苫辺尊が嫁いだのでは無いか。
大戸之道尊は海部氏第14世の支族だった人物だったのではないだろうか。
海部氏は尾張氏より格上の氏族であり、海部氏に結びついたことで、
尾張連で最も格の高くなった大苫辺命を祀るに当って、
一緒に祀る男神が存在せず、
多くの氏族の先祖である伊邪那美命を一緒に祀ったのではないか。
大苫辺命の立場は日本武尊に嫁いだ尾張氏・宮簀媛(ミヤズヒメ),
あるいは孝昭天皇の皇后となった沖津世襲の妹、
世襲足媛(ヨソタラシヒメ)と相似であり、
宮簀媛、世襲足媛のモデルとなったのが神代の女神
大苫辺命である可能性もある。
宮簀媛の場合は草薙剣という、
宮簀媛よりも皇室に近い神体が尾張氏の手元に存在したことから、
宮簀媛を主祭神とする必要が無かったのだろう。
拝殿の賽銭箱には川嶋神社の神紋、十二弁菊に「川」神紋が
銅のレリーフにして取り付けてあった(写真中)。
皇室に近い一族であることを誇示するためだろうが、
公認ではないために,中央に文字を入れ、
皇室の使用してきた十六八重表菊紋や十六弁菊紋より
申し訳程度に弁が少ないところに、
言い訳がましさを感じさせる神紋である。
ところで、川島神社の本殿も鉄筋流れ造で、一般的な社殿だ(写真右)。
ただし、鰹木は女神を示す4本、千木は男神を示す外削ぎとなっており、
男神主祭神の筆頭に挙げられている誉田天皇に由来するものだろうか。
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