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2017年10月31日00:06

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稲置街道191 稲置だった大荒田命

大縣神社 奥宮表参道の雨宮社から参道を北東に向かうと、
参道は途中から東北東に進路を変え、5分ほどで
参道の右端にある巨石の上に参道と平行して
銅板葺流れ造の社が祀られていた(写真左)。

フォト

必然的に社は西南西を向いていることになる。
社を歪んだ板垣が囲んでいるのだが,
その社前には、これも歪んだ玉垣で囲ったスペースがある。
社の右側には傾斜した板塀があるのだが,この吹きさらしの場所で、
強風に煽られて傾いたのかと思ったが、そうではなかった。
この塀はステンレスのポールで意図的に45度の角度で設置されたもので、
半分、風を逃がすことで、強風に耐えられるように設計されたものだった。
社の祀られている巨石の上に上がると、
塀の向こう側(社地の右側面)は断崖になっていた。
そして、この社の前から正面の遠景に
長い尾根を南西に引く猿投山(さなげやま)が立ち上がっていた(写真中)。
日本武尊(小碓命)の兄、大碓命(オオウス)の陵墓があり、巨石信仰のある山だが、
その山名「サナゲ」は銅鐸・鉄鐸を表す「サナギ」に通じ、
大縣神社周辺で銅鐸が2基発掘されていることと妙に符丁が合う。
そして,猿投山を神体山とし,大碓命を祀る猿投神社では
左利き用の鎌を奉納する風習が存在する。
鎌は草を薙ぐ農具だが、私見では草薙剣(くさなぎのつるぎ)の実体は
農具としての鉄鎌ではないかとみており,
だから日本武尊は東征にも伊吹山に向かう時にも
草薙剣を持参しなかったとも解釈できるのだ。
さらに,ここ本宮山に祀られた大縣大神の候補として
日本武尊の三世孫である大荒田命が存在するのだが、
猿投山に祀られている大碓命はその大荒田命の大伯父に当ることになる。
稲置街道の「稲置(いなぎ)」とは684年に天武天皇の制定した
八色の姓(やくさのかばね/地方長官の役職)の一つであり,
一般には、使用されなかったとされているのだが,
この地では天武天皇の時代以前に大荒田命の姓とされている。
ただし、大荒田命の娘,玉姫が
日本武尊の東征の副将軍健稲種命(タケイナダネ)に嫁いでいることからすると,
紀元前から祀られているとする大縣大神と大荒田命の時系列は、全く一致しない。
しかも,本宮山の麓にある、日本最大の農業用溜池、入鹿池の名称は
安閑天皇2年(534年)に,この地に設けられた
入鹿屯倉(いるかのみやけ)に由来することが判った(『日本書紀』)が,
宣化天皇元年(467年?)の条には後に入鹿屯倉が設けられる地に
蘇我稲目が尾張連を遣わして、
尾張の国の屯倉の稲モミを運ばせよと命じた記載がある。
このことから健稲種命と,この地の豪族(爾波県君の祖・大荒田命)は
婚姻を結んだものと思われる。
尾張の国の屯倉に「入鹿屯倉」と名付けたのは、
稲目を引き継いだ蘇我入鹿自身だった可能性があることになる。

一方,本宮山の西南西の足元に位置する尾張信貴山の森の中に
尾張信貴山泉浄院の本堂と多宝塔の屋根らしきものが見下ろせる(写真右)。
信貴山の向こう側は小牧市市街だ。

絶景を見下ろせる巨石は二山に分れており、
社の置かれた東北東側の石は複数のひび割れがあり,
おそらく,そのためにその石の社前の一部がコンクリートでたたかれていた。

フォト

社前には御嶽神社の神紋の入っている比較的新しい水鉢が置かれていることから、
その場では御嶽神社だと思った。
しかし、この神社は「山姥青黄姫龍王社」と言った。
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