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2017年09月22日19:01

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稲置街道164 岩崎山麓のハルとイシキ

この日の岩崎山 熊野神社参道西側土手の線刻チェックの目標は
「七支樹」だったが、その目標の線刻石には直射日光が当っていて、
深い線刻しか認識できなかった。

やむなく、岩崎山を下って、熊野神社石段の麓からほぼ東400m以内にある
スサノヲ(牡牛神ハル)に向かった。
岩崎山 熊野神社から隠された可能性のある
スサノヲ(家都美御子大神)を祀っている設備を
岩崎の地図を舐めまわすように探していたのだが、
それらしき祭祀物は見当たらなかった。
しかし、ふと、「小牧市岩崎+天王社」でGoogle検索したところ、
『Yahoo!地図』の検索結果である、
日本全国に存在する54社の牛頭天王社のリストが表示された。
(http://urx.blue/G0aa)
その中に以下の情報があった。

「津島牛頭天王社
 愛知県小牧市大字岩崎」

しかし、津島牛頭天王社の総本社、津島神社の主祭神は
建速須佐之男命となっているものの、
熊野神社(主祭神:家都美御子大神=スサノヲ)や
岩崎山 熊野神社の常夜灯に見られる
桃を神紋とする須佐神社(主祭神:素戔嗚尊)とは系統が異なる。
つまり、岩崎山 熊野神社から隠された可能性のある
スサノヲ(徳川系の神だが、岩崎山は豊臣系の砦が築かれた山)や
岩崎山 熊野神社の境内社として祀られていた可能性のある須佐神社とも
別の系統の神社である。
この津島牛頭天王社は、もとが岩崎 熊野神社の境内社だった可能性も、
現在も岩崎 熊野神社の境内外社である可能性もある。
津島牛頭天王社は東に延びる岩崎山の尾根の東端のほぼ南
200m以内に位置している。
周辺は住宅街だが、空き地も見られ、天王社の北側は中部電力の変電所、
南の向かいには巨大倉庫があり、東側は公園、
周辺は現代まで、畑地だったようだ。
津島牛頭天王社は記紀成立以後に現われた神社であり、
出雲大社のような蘇我氏(出雲神族)とは関わりの無い神社であり、
熊野神社のスサノヲ(家都美御子大神)を羽柴秀吉から隠すには
好都合な神社だったと言える。

津島牛頭天王社の祀られた場所に行ってみると、
それは中部電力変電所の敷地のコーナー部分を分割して、
面する変電所と公園との間に生け垣を設け、小さな境内が形成されていた。

フォト

南面する表道路からは市松に置かれた敷石の参道が北東に延び、
参道奥には瑠璃色にペイントされたトタン葺素木造の社が
切り出したままに近い基壇の上に設置されていた(写真左)。

フォト

社前に置かれた大きな拝石も同様に切り出されたままの石のようだ。
そして、参道脇の生け垣の中に置かれた常夜灯のパーツも、
岩崎山から切り出された花崗岩を
ほとんど未加工で積み木のように積んだものだった。
その常夜灯は笠と中台は旧い石灯籠のものが流用されているものの、
灯袋と竿部分は採石工が岩崎山から新たに切り出したもののようだ。
明らかに造形的には石工というよりも採石工の手になる組み合わせであり、
プロの彫像工なら、こんなことはしない。
それで、単独でこの常夜灯を撮影することはなかったのだが、
日記を書いているいるうちに
岩崎 厳島社の由緒書にあったこの一文が気になった。

「慶長年間、名古屋城築城の際、近くの岩崎山より大石を切り出しの石工が奉納した珍しい燈籠が一基あり」

厳島社の燈籠は
拝殿前の何の変哲も無い一対の石燈籠(http://u0u0.net/G2yP)しか
見当たらなかったので、
この文中の「燈籠」がそれとしか思わなかったのだが、
上記、津島牛頭天王社の境内にある常夜灯を眺めているうちに、
厳島社の境内の片隅にも同じような常夜灯があるのを思い出し、
5度目の岩崎山に線刻石を観に行った折りに、3度目の厳島神社で撮影してきた。
(写真中)
おそらく、由緒書にある「石工が奉納した珍しい燈籠」とは、
この常夜灯のことなのだろう。
加工度は津島牛頭天王社の常夜灯より高く、笠と灯が一体になったパーツが
円柱形の竿に乗ったものだ。
流用する笠が手に入らなかったことから、加工度が高くなったものと思われる。
津島牛頭天王社の常夜灯も厳島社に奉納した石工になるものかは不明だが、
同じ人物が関った可能性がある。
もしそうであるなら、この石工は岩崎のイシキとハルの両方に関ったことになる。
そして、参道から外れた厳島神社の常夜灯を撮影したことで、
3度目の厳島神社来訪で、拝殿脇から奥に入って行ける通路の存在に気付いた。
拝殿脇に桜の樹が生えていることから表参道から見て、
奥には入れないようにしてあると思い込んでいたのだ。
拝殿の裏面には板垣が巡らされていたが、
すぐ脇から銅板葺素木造の本殿を観ることができた。
表道路から見える基壇石が気になっていたのだが、
こちら側には石段が彫ってあり、基壇と一体になっていることが判り、驚いた。
(写真右)
こちら側から見た限りでは基壇にも、その前の拝石にも線刻は無さそうだった。
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