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2017年06月03日22:01

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柳沢吉保の話

エフエム富士で、柳沢吉保の話をいたします。オン・エアは、6月9日と16日(金)の、朝8時30分頃から10分間。DJは森雄一さん。写真は先日の収録の際、撮っていただきました。思ったよりちゃんとした放送局でした。9日は、悪いイメージの吉保について。16日は、吉保の実像。
しばらくの間、各分野のゲストを招いて続くそうです。石川は、夏休み頃また登場します。
ふだんはあまりちゃんとした原稿はつくりません。今回は予め、ディレクターとDJの方にもみていただこうと、作ってみました。

9日の原稿
・早速ですが、「柳沢吉保」は悪いことをした人だったのでしょうか・・・
 江戸時代には、「実録」というジャンルの文芸がありました。実際にあったことをしたじきに、フィクションを加えて面白いお話に仕立てたもので、多くの歌舞伎や講談の材料になったものです。時の政治批判的なものもあるので、印刷されず、写本の形で広く読まれました。その「実録」の中に、「柳沢騒動記」とか「護国女太平記」とか題された作品があります。五代将軍の徳川綱吉と柳沢吉保の二人が主人公です。
・どんな話でしょう。
 吉保は、陰では不当な金儲けなど悪事をしながら、吉保に取り入り、やがて大名となって多くの領地を得ます。綱吉は吉保を贔屓します。そして吉保の息子の吉里が実は綱吉の息子である、という筋立てです。綱吉が次の将軍に吉里を指名するという段になって、綱吉の奥さんが、それでは天下が乱れる、と言って反対します。しかし、綱吉がそれを受け入れないので、奥さんが綱吉を刺殺し、自らも死ぬという話です。
・その人物像が、ドラマや歌舞伎にも取り入れられているのですね。
 今はあまり演じられませんが、この「護国女太平記」を歌舞伎化した作品もありますし、テレビでは、例えば「水戸黄門」でも、悪の権化として登場したこともあります。
・「忠臣蔵」の物語でも吉保は悪者ですよね。
 忠臣蔵というのは、歌舞伎のタイトルで、「赤穂浪士の討ち入り」というのが事件の名前です。発端は江戸城内で、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけたことです。城内で刀を抜くのはご法度であったため、浅野内匠頭は切腹させられましたが、吉良はおとがめなしでした。しかも浅野家は断絶。つまり浅野の家臣が職を失い「浪士」となります。その中の数十人が団結し、吉良を殺します。そして仇討が成功した後には赤穂浪士には切腹が申しつけられます。こういった流れの中で、まず、浅野のお家断絶と吉良へのおとがめなしという処置が適切だったのかどうか、と問われます。処分の最終決定は将軍綱吉が行いますが、実質は吉保らが決めます。本来吉良は被害者ですからおとがめなしでも構わないのですが、浅野が刀を抜くには我慢できないほどの何かがあったのだろう、という推測もあり、吉良に処分がないのはおかしいし、浅野家の断絶も厳しすぎるという意見が出てきます。その不満が吉保に向けられたのでしょう。
・この悪人のイメージとなってしまった背景はなんだったのでしょうか?
他にないほど出世したため、何かあやしい、と思われたのが発端でしょう。
特に綱吉に気に入られていました。「吉保」の「吉」は綱吉から一字をもらっているし、綱吉は五十回以上も吉保の屋敷を訪れています。そして、吉里が産まれて以来、石高が大きく増えているところから、明治時代でも、吉里は綱吉の実の息子である、という説を唱えている学者もいました。昭和になっても綱吉と吉保の男同士の特別な関係を想定している学者もいます。
・綱吉って「生類逢われみの令」などで、あまり評判がよくないですよね。
 江戸時代には、表立って綱吉を批判できないため、側用人であった吉保が悪い、という形で話が広まった面があります。また、綱吉と奥さんが相次いで亡くなったことから、「護国女太平記」のような、奥さんが綱吉を刺殺したという物語もできたのでしょう。

16日の話の原稿
・前回、柳沢吉保の悪人ぶりのお話しを伺いましたが、本当に史実に残るような悪事ばかりをもくろんでいたのでしょうか?
 人物の評価は難しいですよね。たとえば、田中角栄さんも金権政治などと呼ばれ、晩年は逮捕されてしまいましたが、総理になった時は、貧しく学歴もないのにたたきあげて総理大臣にまで上り詰めた素晴らしい人物という評価でしたし、「日本列島改造論」で明るい未来を見せてくれました。異例の出世をした人物は、いい部分と悪い部分の両方があるのがむしろ自然でしょう。江戸時代に作られたり読まれたりした物語の中での吉保は、圧倒的に悪人の描写ですが、そんな人物が出世し、幕府の中枢に長くいられるはずもありません。たとえば臣下の中には荻生徂徠もおり、彼を信頼していましたし、徂徠も主君である吉保のために働いていました。そして甲斐国をいわば遠隔操作で治めて実績をあげており、これは、よほど優れたスタッフを抱えていたからできたことでしょう。吉里の代に大和郡山へと転封されますが、そう冷遇されたわけではなく、一国の殿様として幕末まで過ごしたのですから、領民とも、幕府ともいい関係を維持していたことになります。 
・実際江戸時代の柳沢吉保の評判はどうだったのですか?
 当時の資料が残されています。元禄三年(1690年)、まだ、吉保が「保明」と名乗っており、領地も二万石の頃のものです。全国二百数十名の大名の、家族や家系、領内の様子、大名の人柄や評判を記録しています。「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」というタイトルの本です。ここでは、吉保について「生まれつき、才知にすぐれている。将軍の近臣なので、文の道を学んでいる。行いは正しく、慈悲深い」といいことばかり書かれています。最後には「誉れの善将」と持ち上げられ「信も徳もあるので、将軍に気に入られ、家が繁盛する」と高い評価を得ています。他の大名たちに比べても、たいへんな褒められかたです。
・こんなに褒められているということは、悪人ではなかったのでしょうか。
「土芥寇讎記」という一つの本だけでは判断できないですね。この本は複数の人物により書かれたようで、吉保の部分は吉保に近い立場の人間が書いた、という可能性もあります。一方、同時代でも吉保を苦々しい思いで見た人たちもいます。例えば、室鳩巣(むろのきゅうそう)という学者は、「吉保は妾(めかけ)を二十人以上抱えていて、臣下が諫言しても聞かない」と手紙に書いています。もう少し後の時代には新井白石が「折たくしばの記」で、吉保について「甲斐の国主となったころには、天下のことは彼の意のままで、老中は機能しておらず、老中の将軍へのお目見えも月に数回のようだ」と批判的に記しています。
しかし、吉保の日記である「楽只堂年録」などによれば、老中とはしばしば連絡をとっていたことがわかりますし、複数の妾がいたのは当時当たり前でしたから、室鳩巣らの評価は、噂話に基づいた、根拠のない評価かもしれません。
ただ、異例な出世をしたのですから、多少の無理はしただろうし、妬まれたのも当然でしょう。


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