4月の下旬 薄曇り
児子社(ちごしゃ)の西北西370m以内に位置する
綿神社(わたじんじゃ)に向かうことにした。
綿神社は児子社のことを調べているうちに,その存在に気付いた神社だ。
前回、稲置街道を辿った時,ついでに稲置街道周辺にある,パン専門店で
母親が毎朝食に食べているサンドイッチを購入しようと、目星を付けておき、
帰途(夕刻)に寄ったところ、
カウンターと棚しか無い小さな店舗に長蛇の列ができており,
店内を覗いたが,食パン以外には2種類くらいのパンしか残っていなかった。
それで、この日は最初にその店に向かった。
名古屋高速1号楠線を北上し、その西側にあるパン屋に向かっていると、
右手(北側)に玉垣が並んでいるのに気付いた。
この神社も見落としていたのかと、向かい側の歩道上に愛車を停めた。
前回、パン屋に向かった時もこの前を通っているのだが、
その時はこの神社の存在にまったく気付いていなかった。
鳥居は社頭から10m以上奥に設置され、
社頭からコンクリート叩きの参道が,ほぼ1直線に北に延びている。
参道の入口脇には教育委員会の製作した案内書があって、
タイトルを見ると、何と、『綿(わた)神社』とあった。
ここはパン屋の後、最初に寄ろうとしていた神社だったが、
パン屋と神社の位置を別々にインプットしていたので,
双方の位置関係を関連づけて見ていなかった。
つまり,この場所に綿神社があるとは,まったくの想定外だったのだ。
案内書にはこうあった。
「平安時代初期の年中行事や制度などを記した、『延喜式』に載る〈山田郡綿神社〉にあたるとされる格式の高い神社で、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと),神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る。社名は、玉依比売命が海神綿津見神(わたつみのかみ)の娘であることに由来している。
戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は,荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったといわれている。」
式内社綿神社説のあるもう一社、児子社の正体が、
なぜ,あんなに曖昧なままにされているかの理由が解った気がする。
教育委員会は式内社綿神社を現在の綿神社としているのだが,
「式内社綿神社=児子社」説を
明確に否定する訳にもいかなかったのかもしれない。
この神社の社地の向かって右隣(東隣)は曹洞宗寺院の曹渓山 霊源寺だが、
一般の道路に面した部分は広い駐車場で,
奥に入って行かなければ,寺院だとは気付かないだろう。
綿神社の参道に入って数メートルの右手に
「式内 綿神社」と刻まれた社号標があるのだが,
「綿」の文字の遍と旁が左右入れ換えられており(写真左)、
案内書が無ければ綿神社と気付かなかったかもしれない。
社号標の10mあまり奥に石造の八幡鳥居があったが,
その鳥居から奥は境内の幅も狭くなり、2m幅の参道も1.5mほどに狭まっている。
その八幡鳥居をくぐり,参道を奥に進むと、15mほどで、
参道左手にだけ,巨大な石灯籠が設置されていた(写真中)。
さらにその石灯籠前から10mほど奥に二ノ鳥居の柱の根本だけが残されており,
その二ノ鳥居の柱から奥は、今度は境内が先に進むほど広がっているのだが,
参道の幅は狭まったまま,奥に一直線に延びている。
二ノ鳥居の柱の奥、10mあまりの場所には三ノ鳥居が設置されている。
三ノ鳥居前に到達すると、それも石造の八幡鳥居だったが,
その先の境内は一気に右手に広がっていた(写真右)。
この三ノ鳥居まで,ほぼ100m。
これまでも,鰻の寝床のような境内は見てきているが、
こんなに長いのは遭遇したことが無い。
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