mixiユーザー(id:350761)

2017年04月30日05:15

542 view

稲置街道30 パン屋と綿神社

4月の下旬 薄曇り
児子社(ちごしゃ)の西北西370m以内に位置する
綿神社(わたじんじゃ)に向かうことにした。

フォト

綿神社は児子社のことを調べているうちに,その存在に気付いた神社だ。
前回、稲置街道を辿った時,ついでに稲置街道周辺にある,パン専門店で
母親が毎朝食に食べているサンドイッチを購入しようと、目星を付けておき、
帰途(夕刻)に寄ったところ、
カウンターと棚しか無い小さな店舗に長蛇の列ができており,
店内を覗いたが,食パン以外には2種類くらいのパンしか残っていなかった。
それで、この日は最初にその店に向かった。
名古屋高速1号楠線を北上し、その西側にあるパン屋に向かっていると、
右手(北側)に玉垣が並んでいるのに気付いた。

フォト

この神社も見落としていたのかと、向かい側の歩道上に愛車を停めた。
前回、パン屋に向かった時もこの前を通っているのだが、
その時はこの神社の存在にまったく気付いていなかった。
鳥居は社頭から10m以上奥に設置され、
社頭からコンクリート叩きの参道が,ほぼ1直線に北に延びている。
参道の入口脇には教育委員会の製作した案内書があって、
タイトルを見ると、何と、『綿(わた)神社』とあった。
ここはパン屋の後、最初に寄ろうとしていた神社だったが、
パン屋と神社の位置を別々にインプットしていたので,
双方の位置関係を関連づけて見ていなかった。
つまり,この場所に綿神社があるとは,まったくの想定外だったのだ。
案内書にはこうあった。

「平安時代初期の年中行事や制度などを記した、『延喜式』に載る〈山田郡綿神社〉にあたるとされる格式の高い神社で、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと),神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る。社名は、玉依比売命が海神綿津見神(わたつみのかみ)の娘であることに由来している。
 戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は,荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったといわれている。」

式内社綿神社説のあるもう一社、児子社の正体が、
なぜ,あんなに曖昧なままにされているかの理由が解った気がする。
教育委員会は式内社綿神社を現在の綿神社としているのだが,
「式内社綿神社=児子社」説を
明確に否定する訳にもいかなかったのかもしれない。
この神社の社地の向かって右隣(東隣)は曹洞宗寺院の曹渓山 霊源寺だが、
一般の道路に面した部分は広い駐車場で,
奥に入って行かなければ,寺院だとは気付かないだろう。

綿神社の参道に入って数メートルの右手に
「式内 綿神社」と刻まれた社号標があるのだが,
「綿」の文字の遍と旁が左右入れ換えられており(写真左)、
案内書が無ければ綿神社と気付かなかったかもしれない。
社号標の10mあまり奥に石造の八幡鳥居があったが,
その鳥居から奥は境内の幅も狭くなり、2m幅の参道も1.5mほどに狭まっている。

その八幡鳥居をくぐり,参道を奥に進むと、15mほどで、
参道左手にだけ,巨大な石灯籠が設置されていた(写真中)。

さらにその石灯籠前から10mほど奥に二ノ鳥居の柱の根本だけが残されており,
その二ノ鳥居の柱から奥は、今度は境内が先に進むほど広がっているのだが,
参道の幅は狭まったまま,奥に一直線に延びている。
二ノ鳥居の柱の奥、10mあまりの場所には三ノ鳥居が設置されている。

三ノ鳥居前に到達すると、それも石造の八幡鳥居だったが,
その先の境内は一気に右手に広がっていた(写真右)。
この三ノ鳥居まで,ほぼ100m。
これまでも,鰻の寝床のような境内は見てきているが、
こんなに長いのは遭遇したことが無い。
0 12

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する