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2016年08月27日23:07

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美濃路41 七寺の大仏と芝居小屋

七月中旬 晴天
美濃路から日置神社(ひおきじんじゃ)の社頭に至る路地の入口から美濃路を北上。
370mあまりの場所にある大須交差点で美濃路は大須通と交差している。
大須交差点から西に110mあまりの大須通北側に面して七寺(ななつでら)がある。

フォト

大須通には中央分離帯があるので、七寺に向かうために
大須交差点より1本北側の路地を左折し、七寺の裏面の路地を迂回して
七寺の西側の大須通に出、大須交差点に戻る形で南向きの七寺の前に出た。
入口に山門は無く、
両側に門柱と白地に「豊川吒枳尼天(だきにてん)」と墨書きされた幟が立っている。
入口脇の寺号標には「準別格本山七寺」と刻まれているが、
入口からは正面に寺務所の窓以外に、寺院らしいものは見えない。
入口前の歩道上に愛車を停めて、
コンクリートで叩かれた参道を真っすぐ北に進むと、10mあまりの左側(西側)に
ハクウンボクらしき樹木が幹を伸ばし、枝葉を広げており、
その木陰に青銅製の大日如来大仏が奉られていた。

フォト

この寺院は真言宗智山派の寺院で、
市が表示している道案内にも「七寺」と表示されているが、
正式には稲園山(とうえんざん) 長福寺という。
「七寺」と呼ばれる所以に関して『日本大百科全書』にはこう解説されている。

「787年(延暦6)河内権守(かわち ごんのかみ)の紀是広(きの これひろ)が7歳で死んだ愛児光麿(みつまろ)の菩提のため、七区に仏閣と12の僧坊を建立した。」

住職の談話によると、この大仏は空襲時に真赤に灼けたというのだが、
原型を保ち、補修された部分は緑青を吹いている。
撮影時機不明だが、空襲の被害を受ける前の七寺の写真を見ると、
この大仏が写り込んでいる(写真左)。
大仏の前(東)にある経蔵が唯一空襲の被害を免れた建物であり、現在も残っている。
この写真の時代の七寺の表参道は東西に延び、
経蔵は表参道の通っている北側を向いており、大須通から裏面が見える。
七代藩主徳川宗春の時代の七寺図(図版中)を見ると、
本堂の両側に芝居小屋が描き込まれているが、
二代藩主光友の時代には境内に三つの芝居小屋があったことが判っており、
そのことからすると、特に宗春だけが芸能・遊郭を推奨し、
規制緩和を行なっていたわけではなく、
すでに光友の時代から名古屋の“芸所”は始まっていたものと思われるのだ。

現在の大仏の裏面には石造の八幡鳥居があり、
その奥に豊川吒枳尼天が奉られ、大提灯の下がった瓦葺の建物があるが(写真右)、
同じ建物の右側が本堂になっている。

『大須』の公式ウェブサイト(http://osu.co.jp/)には
「七寺」に関してこう説明がある。

「天平七年、僧行基により開創。清洲越しで大須へ移り、尾張徳川藩の祈願所として栄える。太平洋戦争の空襲で七堂伽藍を焼失、現在に至る。寺宝は平安時代に建立の観音菩薩・勢至菩薩と唐櫃入一切経(国指定重要文化財)。」

尾張徳川藩の祈願所であったことから、江戸時代までの七寺(稲園山 長福寺)は
現在の大須の核になっている大須観音(北野山 真福寺宝生院)の
5倍以上の広さの境内を持っていたが、
それも大政奉還によって変化したものと思われる。
ともに真言宗智山派の寺院であり、聖観音を本尊としているが、
現在の大須観音は「別格本山」となっており、
「準別格本山」の七寺より格上になっている。
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