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2016年08月26日23:31

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美濃路40 橘 麻 葵

七月中旬 晴天
橘町大木戸から七面山妙善寺を経由して、美濃路を北に向かった。
七面山妙善寺の山門前を通り抜けて最初の路地を左折し、西に向かうと
70m以内の右側(北側)に橘 日置神社(ひおきじんじゃ)の社頭があった。
(写真左)

フォト

日置神社にやって来たのは3度目になるが、美濃路から近い場所であることには
まったく気付いていなかった。
日置神社は式内社であり、以下の三柱を祀っている。

・天太玉命(アメノフトダマ)
・配祀左:品陀和気命(ホムダワケ)
・配祀右:天照皇大神

教育委員会の案内書によれば「日置」という社名は
暦を司った日置部がここにあったことに由来するとしている。
社頭は南側にあり石造伊勢鳥居の向かい側に愛車を停めた。
鳥居の両側には狛犬が設置されているが、左右の狛犬の基壇には
麻と橘の紋が浮き彫りになっていた(写真中)。
麻はもちろん、天太玉命の育てた植物であり、
橘は品陀和気命を祀った石清水八幡宮の神紋だが、
日置神社は別名を「日置八幡宮」と言ったことが、
社内の日置神社碑に記されている。
具体的には石清水八幡宮が合祀されている。
麻と橘は天太玉命と合祀された品陀和気命を表している。
尾張藩第二代藩主徳川光友が古渡に建てた芝居小屋に「橘座」と名付けたのは
おそらく、この地域の寺社でもっとも旧い
日置神社の「橘」をモチーフにしたのだと思われる。
光友は寺社と芝居小屋と軍事(訓練=鷹狩り)が
いずれも、不条理なカテゴリーに属するものであることを
直感的に知っていたのだろう。
そして、条理である財政には興味を持たなかったのだと思われる。
初代藩主義直と光友の時代には、まだ戦国時代のイメージが強く、
平和が300年も続くイメージが持てなかったのではないだろうか。

鳥居をくぐって、参道をまっすぐ北の拝殿に向かうと、
参道の左手(西側)に沿って、複数の境内社が祀られているのだが、
鳥居から20m以内の場所にだけ、玉垣に囲われた一画があり、
銅板葺の素木で三つ葉葵の紋の付いた神門がある(写真中)。

フォト

神門脇の案内書にはこうある。

「橘社 尾張徳川家二代藩主
    瑞龍院殿光友公

  津島社
  熱田社 合祀
  秋葉社         」

法名には七面の龍神と関係があるのか、「龍」が入っている。
いずれにせよ、橘町は光友と深い縁のある場所のようだ。
それにしても植物を紋章に使用する民族と
猛獣や興奮した動物を紋章に使用する民族はやはり、質が異なる。
そして、自動車には植物系のエンブレムより、
興奮した動物や猛獣のエンブレム方が似合う。
自動車に唐草が付いてたりすると、霊柩車のイメージになるし。
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