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2016年08月19日05:20

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美濃路32 古渡七塚

闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)境内にある
鎧塚のことを調べていると、この地域、古渡(ふるわたり)には
鎧塚を含めて「古渡七塚」と呼ばれる7基の塚が存在したことが判った。
この七塚の中には喪失されたものもあって、
時代によってラインナップに変化があるようだが、
古渡の旧蹟を俳諧に詠みこんで紹介した
『俳諧古渡集』に取り上げられている七塚は以下だという。

      《現状》
一 義次塚 昌桂山泰雲寺
二 為朝塚 尾頭塚
三 山伏塚 榊森白山神社
四 鎧塚  闇之森八幡社鎧塚
五 金塚  榎白龍明神
六 片葉塚 名古屋市中区平和二丁目
七 鎌塚  金山神社

フォト

このうちの4ヶ所、
闇之森八幡社境内社尾頭神社、闇之森八幡社鎧塚、榎白龍明神、金山神社は
すでに訪問しているが、塚であることを知っていたのは鎧塚だけだ。
改めて、美濃路周辺に七基の塚が存在した古渡七塚を巡ることにした。

すでに訪問した榎白龍明神だが、『闇之森八幡社由緒書』は
金塚の所在地をこの榎白龍明神の地であるとしている。
そして、寛文・延宝のころ(1661〜81)編纂された『古渡誌』の付箋に書かれている
金塚は元興寺の屋根の上に掲げられていた金銀の鶏を埋めた所であるという説を
紹介している。
『俳諧古渡集』で俳人冬央は享保十八年(1733),
金塚に関する説明文を書き、以下の句を詠んでいる。

「今渡辺氏一秋雅子控畑の内に此名ありと云り。

 七曲に 塚をまとふや 金銀華       」

この句にある「七曲」がどこであったのか、
すでに117年後の嘉永二年(1849)には判らなくなっていたようで、
榎白龍明神のある地が七曲であるとは特定されていない。
尾張藩普請方であり、名古屋城、安土城などの研究者であった
奥村徳義(おくむらのりよし)は金塚に関係して榎白龍明神が創建され、
騒動が起った顛末を、嘉永二年の『松濤棹筆』に記しているのだが、
金塚のあった場所が榎白龍明神の場所であるという説を否定している。
いずれにせよ、前日訪問した時間帯は光量不足だったので、
改めて榎白龍明神に寄って撮影し(写真左)、その東南東280mあたりにある
山伏塚のあったという場所にある榊森白山社(さかきもりはくさんしゃ)に向かった。
この神社は美濃路の東20m以内にあるのだが、その存在を見落としていた。
白山神社の社頭は南側にあって、社地と歩道を玉垣が区切り、
石造の伊勢鳥居が入り口にあり、鳥居脇の社号標には「榊森白山社」とあるが、
「榊森」の部分は追加修正の石板が貼付けてある(写真中)。
文政5年(1822)に成立した樋口好古(ひぐち こうこ)著の『名古屋府城志』に
山伏塚に関する記述があるという。

「昔、刑罰に逢し跡の印となん。町家と畠の境に小さき塚あり。印に榎一本残れり。或時主じかしこそたち、爰を切、塚を縮めける夜、俄に大熱に犯され、きびしき祟りあり。やがて塚に向ひ、香花灯明を捧げ降参しければ忽止ぬと也」

上記、町家と畠の境にあった小さな塚は処刑された山伏を埋めた塚だという。
殺害された山伏は祟ると言われている。
その塚を削ったんだから、祟るのは当然だ。
鳥居をくぐると、10mあまり先の正面に銅板葺切妻造平入りの拝殿があるが、
榊森白山神社には小丘があったというので、
本殿はその小丘を利用して建てられているのかもしれない。
祭神の案内書にはこうある。

本社白山社 菊理媛神  右 松尾社 大山咋神    境内稲荷社 宇迦之魂神
      伊弉諾尊  左 天王社 建速素盞鳴尊
      大巳貴神    秋葉社 火之迦具土神

拝殿の東脇を廻って裏面を観に行くと、玉垣を巡らせた石垣の上に
銅板葺神明造の本殿と同じく
銅板葺神明造の天王社と秋葉社を合祀した社が奉られていた。

フォト

もしかすると、本殿の場所が山伏塚のあった場所なのかもしれない。
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