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2016年08月10日23:36

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美濃路24 3つの必然

7月の上旬 薄曇り
熱田神宮、高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)を経由して
熱田区新尾頭(しんおとう)の住吉神社に向かった。

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ここにやって来たのは2011年以来、2度目のことになる。
西側40m以内に南北に流れる堀川と切り離して考えることのできない神社だ。
社頭は東西に走る八熊通(やぐまどおり/県道29号線)の歩道に面しており、
いきなり、登りの石段で始まっている(写真左)。
「住吉神社」と刻まれた社号標はその石段の一段目の脇に設置され、
石段の上に真南を向いた石造伊勢鳥居、
その奥はコンクリート造の藩塀が視覚を塞いでいるが、社叢が覗いている。
社頭を通っている八熊通の名称は
通り沿いにある八(劔神社)と熊(野神社)に由来している。
石段を上がり、藩塀を迂回すると、
藩塀の正面20m以内の石垣上に玉垣を巡らせた土段上に
唐破風向拝と千鳥破風を持った瓦葺切妻造の吹きっぱなしの拝殿があり、
正面奥に本殿のシルエットが見えている。

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拝殿を通して和歌三神としての崇敬が起きることになった
住吉大神(住吉三神・息長足姫命)を祀った本殿、菅原道真公を祀った天神社、
柿本人麻呂を祀った人丸社が並んでいる(写真中)。
ちなみに、一般に和歌三神とは
菅原道真公に代わって玉津嶋明神(衣通姫)を含める。
高津柿本神社所蔵の『和歌三神伝』では、
柿本人麻呂は住吉明神の化現とされているという。
新尾頭 住吉神社の由来は社伝にこうある。

「享保19年(1734)に摂州の住吉神を勧請。当初は、新尾頭町道筋東側の小堂内に奉安しが、1762年(宝暦12年)にいたり、社域を現所にさだめた。
 大坂廻船名古屋荷主の笹屋惣七・藤倉屋長六ら極印講中12名が、運漕守護のため社殿を創建して神儀を奉遷した。後に江戸廻船講中時田金右衛門らも信者に加わり修営のことおこたらず、威霊は遠く伊勢・知多・熊野の沿岸にもおよんだ。」

大阪の廻船荷主が関ったことで、
住吉大社から住吉大神が勧請されたものと思われるが、
住吉大社と同じく瑞垣は韓紅に、木口部分を守るように墨染めされている。
住吉大神は尾張氏と関係がある。
天火明命の曾孫、天忍人命(アメノオシヒト)から出たのが尾張氏であり、
天忍人命の弟である天忍男命(アメノオシオ)から出たのが
住吉神を奉斎する津守氏だとされている。
だから津守氏も天火明命、天香語山命(高倉下命)を祖神としているのだ。
高倉下命と住吉大神が近接して祀られた結果になったのは偶然だろうか。
さらに、この地の旧名、尾頭が烏頭(うとう)から転訛したものとする説があるが、
烏頭は「ウヅ」とも読める。
スサノオの孫に倭国造(ヤマトのクニノミヤツコ)宇豆毘古(ウヅヒコ)が存在するが,
高倉下命(タカクラジ:熱田神宮境外摂社高座結御子神社主祭神)もまた,
スサノオの孫であり,
二人の母親は姉妹なのだ。
従兄弟に当たるふたりの関る神社と地名が
熱田台地に南北に並んでいるのは偶然とは思えない。
また、疳(かん)の虫封じで知られる
高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)だが、
疳の虫封じの飲み薬に宇津(うづ)救命丸が存在するのもまた、偶然とは思えない。

拝殿の東側に廻り込むと、本殿は銅板葺流れ造の社であることが判る。
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