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2016年08月09日23:56

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美濃路23 畑中地蔵堂〜熱田神宮神門跡

畑中地蔵堂で、この規模の堂ではまず見たことのない、
三ツ折カラー印刷の栞を頂いたこともあって、
賽銭を奮発して参拝すると、
松姤神社(まつごのかみやしろ)で感じたのに匹敵するレベルの、
しかも金色のエッジを持った光を感じた。
ガラス格子戸越しに堂内を見ると、プレーンな漆塗りの須弥壇が組まれ、
最上段には3基の厨子と数体の仏像が並んでいた(写真左)。
中央の厨子内には色鮮やかな彩色が残っている地蔵菩薩座像。
左右の厨子内には弘法大師座像が奉られているのだが、
向かって左側の彩色の残っている弘法大師像が、
『畑中地蔵出現の由来』に書かれていた、
「榎の大木が倒れた為、その一部で刻んだ弘法大師の像」であることは
栞に写真付きで紹介されていた。
ちなみにこの地蔵堂内にある仏像は中央の

フォト

厨子内の地蔵菩薩像以外はすべて弘法大師像のようだ。
堂内は埃っぽさが微塵も無く、よく奉られていることが伝わってきた。

この畑中地蔵からほぼ真西の美濃街道(国道19号線)の西側の路肩には
「熱田神宮第一神門跡」と刻まれた石碑が立っている(写真中)。

フォト

かつて、熱田神宮の入口がこの辺り(旧・尾頭)にあった証だが、
ここから現在の熱田神宮の最南端までは2.2km近くある。
ヤマタノオロチの尾から出て来た草薙神剣を祀った熱田神宮の入口のあった地名が「尾頭(おとう)」となれば、ヤマタノオロチの関連地名かと思いがちなのだが、
『熱田区誌 熱田の地名』の「尾頭(おとう)」の項にはこう解説がある。

「昔、この地に城畠という所があり、古渡の豪族・尾頭次郎義次の居城があったところから、この名が起きたという説と、元来、この地は〈烏頭〉(うとう)と言われており、それがなまってこの地名となったという説がある。」

尾頭次郎義次が地名を名乗った可能性もあるので、
尾頭が尾頭次郎義次に由来するとは限らないし、
「烏頭」は山鳥兜(ヤマトリカブト)の生薬名「烏頭(うず)」に
由来する可能性もありそうだ。

そして、熱田神宮には第二神門も存在した(写真右)。
熱田神宮境内の北西の角から美濃街道を北に210mあまり北上した旗屋の周辺だが、
第一神門から1.2km近い場所だ。
「旗屋(はたや)」の地名由来に関しては『熱田区誌』にこうある。

「地名の起源は古く、もとは機綾(はたあや)と書いた。雄略天皇のとき、呉国(中国)から来た漢織・呉織の二織女の一人を神宮に奉ったのが起こりという。熱田では、もっとも古い、由緒ある地名の一つである。」
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