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2016年08月03日00:13

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美濃路16 如来教/高倉下命

7月中旬 快晴
美濃路(国道19号線)を辿っていると,美濃路の西側に面している
断夫山古墳(だんぷざんこふん)のある熱田公園の北側60mあまりの場所に
案内書きの立っている堂があった(写真左)。

フォト

この堂は歩道に面しているが、両袖に瓦葺の塀が延びており、
堂に向かって左側には山門があった。
寺院名を青大悲寺(せいだいひじ)という。
宗派は如来教という初めて聞く宗派だ。
堂前の教育委員会制作の案内書『青大悲寺と鉄地蔵』にはこうある。

「当寺は、宝暦六年(1756)この地でうまれた“きの女”が開いた如来教の本山。その説法の速記録は〈御経様〉と呼ばれ、名古屋弁そのままで語られる特異な経典である。
 寺内の地蔵堂には、等身大の鉄地蔵菩薩立像(県指定文化財)が安置されている。像背面裾近くの銘文から室町時代の作であることが分かった。」

「如来教」に関して『世界宗教用語大事典』にはこう説明されている。

「名古屋市熱田区旗屋に本部がある江戸後期にできた新宗教。熱田の農婦きの(1756〜1826)が1802(享和二年)神がかりとなり、宇宙の創造主〈如来〉の使者たる金毘羅大権現だと称したのに始まる。不幸を除くため先祖の万霊供養をすすめ、病気は如来と結縁できるから喜べと教える。きの(〈一尊如来きの〉と自称)の説教集『お経様』が教典で、現在は曹洞禅系に属し、釈迦を本尊とする。大正末年に〈一尊教団〉という分派ができた。」

「旗屋」という地名には断夫山古墳(だんぷざんこふん)も存在するが、
その名称の由来は『名古屋市』公式ウェブサイト(http://www.city.nagoya.jp/)には
こう紹介されている。

「地名の起源は古く、もとは機綾(はたあや)と書いた。雄略天皇のとき、呉国(中国)から来た漢織・呉織の二織女の一人を神宮に奉ったのが起こりという。熱田では、もっとも古い、由緒ある地名の一つである。」

堂内には地蔵菩薩が1体だけ祀られていた。

フォト

7月初旬
断夫山古墳から北北東320m以内にある
高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)に向かった。
社頭は、ほぼ真南を向いており(写真中)、
社号標には「熱田神宮攝社 式内明神大社 高座結御子神社」とある。
場所は熱田神宮のほぼ真北。

高座結TAKAKURAKETSU
   TAKAKURAGE高倉下

「たかくらけつ(高座結)」と読めば、この神社の社名は
主祭神の高倉下命(たかくらげ/たかくらじ)から取ったものであることが解る。
ちなみに高倉下は尾張連らの祖、天香語山命の御子である。
社頭の大看板には
「子育て・無病息災・虫封じ・子預け・井戸のぞき」のご利益が並ぶ。
社号標脇の教育委員会制作の案内書『高座結御子神社』にはこうある。

「俗に高蔵の森、高座さまと言われ、子育ての神として信仰を集めている。
 祭神は高倉下命を祀る熱田神宮の摂社で縁起式内社である。
 社伝によれば、織田信長が本殿を造営し、のちに蜂須賀氏が修造を加えたとある。
 末社である御井社(みいしゃ)の〈高座井戸のぞき〉の神事は、毎年六月一日に行なわれ、子供の虫封じに霊験があるとして評判が高い。」

愛車をどこに留めようかと、社頭をチェックすると、
鳥居の正面の家に住所表示プレートが掛かっており、「夜寒(よさむ)町」とあった。
(写真右)
非常に奇妙な町名だが、
熱田神宮でお供えで使われる皿を「夜寒焼き」と呼んだというのだが、
夜寒で焼いた皿だからそう呼んだのではないかと思われる。
というのは,東京の文京区には「夜寒坂」という坂道があるのだが,
この場合は現在は「やかんざか」と読み,「薬罐坂」「野カン」,
あるいは「射干」にも転訛され,「夜さむの里道」と呼ばれてもいるようだ。
「やかん」とは野犬や野狐の事らしく,
そういう物ノ怪の出るような怪しい場所を意味するようだ。
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