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2016年08月01日07:05

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美濃路14 日本武尊陵 

7月初旬
熱田神宮摂社一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)に参拝した後、
何度も訪れている白鳥古墳(しろとりこふん=白鳥陵)の北側に面している
白鳥公園に向かった。
白鳥古墳の全体像をより把握するには
空間の広がっている白鳥公園側から視認するのが良いのだ。
陵(みささぎ)としての入口は墳墓の西南西側にあり、
こちら側にだけ石柵と石垣が設けてあり、
駱駝色にペイントされた鉄柵の門が付いている(写真左)。
門の脇に立っている白鳥古墳の案内書の要点を抜粋すると、

・6世紀初めごろの築造と推定されている
・全長74mの前方後円墳である
・前方部と後円部の東部分が削り取られて原型が損なわれている
 (削り取られたのは白鳥山 法持寺の境内を移転するためだったと思われるが、
 当時の古墳の価値はそのレベルのものだった)
・古くからこの古墳は日本武尊の陵との説があり、日本武尊が白鳥になって熱田の宮に飛び来たり、降り立った地であるとことから「白鳥御陵」と名付けられたといわれる

最大の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん/全長840m)の築造時間の試算が
15年8ヶ月とされているから寸法で1/10以下の白鳥古墳の築造時間は
体積比ではさらに小さく、最大でも1年以内だろうか。
そこで、6世紀初めごろに列島で起きた大きな出来事をチェックしてみると、
それは多くなく、最大の出来事は507年に男大迹王(ヲホドノオオキミ)が
河内国樟葉宮(くずはのみや)にて第26代継体天皇として即位ことくらいしか
見当たらない。
しかし、このことは尾張氏にとって大きな出来事だった。
なぜなら、大和入りするまでの継体天皇の正妃は
尾張連草香(クサカ)の娘、目子媛(メノコヒメ)だったからだ。
目子媛は第27代安閑天皇と第28代宣化天皇の母親であり、
ふたりとも継体天皇の息子でもある。
多氏や蘇我氏など、多くの氏族が后妃を出しているが、
その中でも尾張氏はもっとも長い期間、后妃を出した氏族だ。
それは尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘売命が第5代孝昭天皇の皇后となり、
その子が孝安天皇として即位したのに始まっている。
そして、目子媛は尾張氏にとって最後の第26代天皇后妃となった。
尾張氏は壬申の乱に於いて、大海人皇子へ私邸や資金を提供するなど
全面的に支援し、天武天皇の誕生に格段の功績を上げている。
『続日本紀』天平宝字元(757年)年12月条によれば、
持統天皇10年(696年)になって、壬申の乱の功績によって、
突然、尾張宿禰大隅が位階・功田を授けられているという。
天武天皇がすでに没して、10年も後になってのことだ。
この尾張宿禰大隅が中央政権に名前の見える最後の尾張氏となった。
翌697年、文武天皇が即位すると、藤原不比等の娘、宮子が后妃となり、
皇室に影響を与えた氏族は明確に尾張氏などから藤原氏に切り替わった。
だが、熱田神宮大宮司家が霊夢の託宣と称して藤原氏に切り替わったのは
1114年のことで、尾張氏外孫の藤原季範(藤原南家)が大宮司に就任すると、
その子孫による世襲となった。
もっとも、季範の時代にはすでに都からの赴任という形になっており、
役職のひとつになっていたようだ。

ところで白鳥古墳だが、門に向かって左手が後円部で、
そちら側が公園になっている。
公園側から望めるのは後円部の右後の角度で、
その麓から後円部頂上を望んだのが下記写真だ。

フォト

白鳥古墳の場合、古墳らしさが見えるのはこの角度のみだ。

「日本武尊が白鳥になって(熱田の宮に)飛び来たり、降り立った」という伝承は
記紀の伝承が元になっているようなのだが、
記紀の飛行到着先は熱田の白鳥古墳と異なり、
大和、あるいは天に翔ったとされている。
この類似の伝承は熱田神宮の元宮、氷上姉子神社周辺の古墳、
斎山稲荷古墳(いつきやまいなりこふん)にもある。
宮簀媛(ミヤズヒメ)の邸宅は
氷上姉御神社の西脇にある火上山(ひかみやま)の頂きにあったが、
その曲がりくねった尾根を西に630mあまり辿ると
(実際には私有地になっており、交通止めがある)
斎山稲荷古墳がある。
後円部(写真中)径30m・高さ3mの帆立貝式前方後円墳だといい、
脇にある斎山稲荷神社には日本武尊命・宮簀媛命・倉稲魂命が祀られている。
(写真右)は斎山稲荷古墳のある斎山を南側の麓から撮影したものだ。
日本武尊の陵とする古墳はほかに宮内庁の治定した以下の3ヶ所がある。

●能褒野墓(のぼののはか/三重県亀山市田村町)
墳丘長90mの前方後円墳 4世紀末の築造と推定される
●白鳥陵(しらとりのみささぎ/奈良県御所市富田町)
幅約28m×約45mの長方丘墳(一説には円墳) 
●白鳥陵(しらとりのみささぎ/大阪府羽曳野市軽里町)
墳丘長190mの前方後円墳 5世紀後半の築造と推定される

フォト

上記3ヶ所は『日本書紀』にある白鳥の飛行ルートを辿ったもので、
人間が白鳥になったことを認めている。
しかも、学術的には(?)三重県亀山市から大阪府羽曳野市まで飛ぶのに
150年ほど掛かっていることになる。
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