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2015年08月13日00:12

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笠寺街道7 呉織・漢織と八十八才の親鸞

フォト

四国第二番日照山 無量院 極楽寺の東隣には
「聖徳皇太子■像」と刻まれた標柱が立てられていた(写真左)。
その標柱の右奥の灌木の上に突き出た基壇の上に
一般に「聖徳太子孝養像」と呼ばれる石像が奉られている。
「八十八ヶ所」の文字が見えないので、
覚王山八十八ヶ所の番外として奉られているものらしい。
標柱の下部にはさらに以下のように刻まれている(写真中)。

「呉織
   八十八歳■書(白圭)
 漢織         」

呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)とは
兵庫県の池田市や西宮市喜多向稲荷神社に伝わるふたりの織り姫の名だ。
『池田市立図書館』公式ウェブサイト(http://lib-ikedacity.jp/)の
郷土文献リストにふたりの名前がアップされている。
内容は以下。

「 池田には応神天皇のころ、大陸から呉織・漢織の2人の織り姫がこの地に渡り、織物や染色の技術を伝えたという伝説が残っています。
この伝承は、一般には、『日本書紀』応神(おうじん)天皇37年条に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして縫工女(きぬぬいめ)を求め、呉の王から呉織・漢織らを与えられたという記述を題材にしたものだと考えられています。
※ 『日本書紀』 「巻第十 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)応神天皇」「巻第十四 大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)雄略(ゆうりゃく)天皇」に、この縫工女招致に関する伝承が収められています。 『国史大辞典 4 き‐く』によると、「ただし、応神紀・雄略紀のこれらの織工女の記事は、同じ内容のものを分けて記したか、あるいは前者は後者の記事の混入ではないか、といわれる。」とあります。
※呉織は呉服、漢織は穴織とも書きます。「はとり」は機織の意です。(『国史大辞典 4 き‐く』p952 くれはとり・あやはとり)(『日本歴史大辞典 1 あ‐う』)
池田市内には、この機織伝承ゆかりの旧跡が各所に残されています。2人の織姫を乗せた船が着いたところが<唐船が淵>(新町〜木部町、猪名川のカーブした辺り)、糸を染めた井戸が<染殿井>(満寿美町)、絹を干したのが<絹掛の松> (畑)、機を織ったのところが<星の宮>(建石町)、2人が葬られたとされる墓が<梅室・姫室>(槻木町〜室町あたり)、そして呉織が祀られたのが<呉服神社>(室町)、漢織が祀られたのが<伊居太神社>(綾羽)とされています。
池田の市章はこの伝説を元にしています。外側の井桁は<染殿井>を、内側の糸巻きは織り姫たちが織物に使った糸巻きを表しています。
『池田市史 概説篇』には次のような記述があります。「呉織・漢織が池田に来て織物技術を伝えたとされていますが、日本書紀にはこのような記述はなく、この伝承がいつ、なぜ、どのようにして誕生したのか、はっきりしたことはわかっていません。」
この伝承がいつ頃できたか確定する史料はありませんが、元禄14年(1701)にできた『摂陽群談』や寛政10年(1798)刊行の『摂津名所図会』などに、この伝承に関する記述があることから、江戸時代前期までには現在伝えられているような姿になっていたと考えられます。呉織・漢織の伝承は、池田だけに伝えられたものではなく、例えば西宮市にも同様の伝承が残されていますが、池田のように完成度の高い伝承として現在まで伝わったものではありません。」

「八十八歳」は親鸞がこの年齢の時に書いたとされている
五首の「善光寺如来和讃」と関係があるようで、
その「善光寺如来和讃」は「皇太子聖徳奉賛」の一部とされており、
五首とも善光寺如来を讃え、物部守屋をディスる内容だ。

「善光寺の如来の われらをあわれみまして 
  なにわのうらにきたります 御名をも知らぬ守屋にて」

廃仏派として蘇我氏と戦った守屋が如来を信仰するわけがないんだから、
あまりにも幼稚で内容の無い和讃であり、
とても親鸞が詠った和讃とは思えないものばかりなのだ。
そして、信州善光寺には善光寺如来と聖徳太子の間で交わされた
六通の往復書簡の記録が残されているという。
仏が聖徳太子と書簡を交わしたという
半村良(『戦国自衛隊』の作者)もビックリな出来事だが、
その書簡のオリジナルは法隆寺に現存し、永久封印されているという。
ただし、1度だけ明治政府が強引に開封し、
その内容の記録が善光寺に残されたものだとされている。
調査不可能にして実に好都合な状況にある永久封印文書だ。
「八十八」の下に続く「●書」だが、
「●」は「翁」を「幟」で挟んだような記号(漢字?)であり、
「●書」が「封印された書」を意味してるのかもしれない。
そして、最後に線香立てのような器に「白圭」と書かれた記号。
「白圭」とは『史記』に登場する商人の白圭(はくけい)であれば、
聖徳太子とは結びつく要素が無いような気がする。

この聖徳太子孝養像の奉られた場所は
入口に一対のファニーな常夜灯が設置してあり、
左側の常夜灯の根本には涎掛けをもらった石仏が奉られている。

フォト

常夜灯の先には線香台や丸テーブルのような石造物、
さらにその先には地面に一対の饅頭形の石造物が置いてあるのだが、
その饅頭形の石造物には菊水の紋が刻まれていた(写真右)。
今年8月11・12日、四天王寺で盆踊り大会が行なわれ、
河内音頭で知られる河内家菊水丸(かわちやきくすいまる)が
重要文化財の石舞台に登場し、
河内音頭に乗せて聖徳太子の幼少期の伝説を語ったという。
そのイベントをこの祭祀場は見事に予見しているのだ。
奥の灌木の中には聖徳太子孝養像のほかに1対の人物石像が姿を覗かせていた。
その1対の人物石像は当然,二皇子だろうと思っていた。
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