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2015年02月23日09:24

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フォルムの実際 19世紀 緑の日傘3

フォルムの実際 19世紀 緑の日傘3
 アーネスト・オシュデはベルギー出身の移民だった。フランスのベルギー社会では顔役だったようだ。同じベルギー系だったアリスはパリ生まれ。アーネスト・オシュデとアリスとの縁談が持ち上がった時、アーネストの母親は、アリスをこう評している。アリスはウイットに富み、意思が強く聡明で、しかも声が大きくて元気だ。実物は写真よりも綺麗に見えた、と。比較的病弱だったカミ−ユとは真逆の性格だったようだ。非常にてきぱきと仕事をこなす実務家の一面を持っていた。お見合い結婚だったようだ。古典絵画では、非常に多くの王族や貴族達の肖像画が描かれていた。昔の王族同士の結婚はほとんどが政略結婚で、結婚適齢期の王女達の肖像画はお見合い写真の代わりとして先方の王子に届けられた。王子は、その肖像画を見て結婚を決めたようだ。そのため、肖像画は王女や国の未来をも決定するような重要なアイテムだった。上流階級のお見合いも、写真がなかった時代には、肖像画をお見合い写真代わりに使っていたのだろう。写真が普及し始めるとお見合い写真を使うようになり、当時の上流階級の若い女性の写真は立派な写真スタジオで撮影されていた。まるで映画スターのようなセットでの撮影だった。写真は、ただ記録として残すだけではなく実用的な必需品にもなっていた。アリスは、写真写りがあまりよろしくなかったようで、アリス本人も容姿にはあまり自身がなかったと思われる。肖像画が無い訳ではないのだが、絵に描かれる事をあまり好まなかった。オシュデ家には子供が沢山いて、モネと出会った頃には、娘が4人と息子が1人いた。
 1876年4月に第2回印象派展が開催され、モネは、カミーユをモデルに描いたラ・ジャポネーズを出品し、2000フランで売れて一息つく。モネの作品は売れなかったと良く言われるが、実は、モネの人物画は人気で、肖像画もそうだが結構高値で売れている。モネは風景画に強い思い入れがあって、なんとか風景画家として成功したいと考えていたようだ。新古典派の影響からフランスでは全般的に風景画よりも人物画の評価の方が高かった。モネはそういった社会的価値観とも戦っていたのだ。この年の夏に印象派コレクターの大富豪ムッシュ・オシュデと知り合い、晩夏、モネは、ムッシュ・オシュデにロッテンブール城に招かれて七面鳥をモチーフにした絵画を制作していた。だが、モネのこの行動が後に問題となってしまう。
 1877年、モネは、当時話題になっていた汽車を描くためにパリに滞在、サン・ラザール駅の連作を描いている。4月に開催された第3回印象派展にサン・ラザール駅の連作を含め描き溜めた31点もの作品を出品。初夏から夏にかけて、ムッシュ・オシュデの依頼だったのだろう、オシュデの子供達も描いていた。
 それは突然だった。8月の終わり頃、この大金持ちの資産家、アーネスト・オシュデが破産したのだ。全財産を失い、債権者に追われて自殺未遂まで起こす。モネにしても晴天の霹靂だっただろう。ムッシュ・オシュデは、パリに家族を残して1人ベルギーヘ逃げ帰ってしまった。モネは、ムッシュ・オシュデが失踪してしまった事で、当てにしていたお金も入らなくなり、自分の作品を安いお金で同じく印象派コレクターだったショッケに売った。悲惨だったのはムッシュ・オシュデの妻のアリスで、お腹の中には赤ちゃんが宿っており、身重の体に娘4人と息子1人を抱えてパリの街に放り出されてしまったのだ。アリスは実家に身を寄せ、末息子のジャン=ピエール・オシュデを出産し、しばらく実家で静養した後、実家を出て自立していく。子供達の養育費は実家から仕送りしてもらっていたようだ。
 1878年、モネは、親子3人で住んでいたアルジャントゥイユの家の滞納していた家賃を、マネ達友人からの借金で支払いパリに一時的に引っ越してきた。カミーユの出産が間近だった事もあったようだ。3月にカミーユは実家で次男のミッシェルを出産。6月に、ムッシュ・オシュデが収集していた印象派の絵画が大量に競売にかけられ、買い叩かれてしまう。この時に、もともと、そう高くはなかった印象派の絵画がさらに値崩れする。次男を出産した後のカミーユは体調を崩したままで体調が優れない日々が続いていた。モネはアリスと夏の間だけ、パリから離れ、物価も安い田舎町のヴェトゥイユに家を借りて住む事を相談。家を借りるお金はマネが工面してくれた。マネがいなければモネ達は生きていけなかったかも知れない。モネにとってマネは大恩人で、終生、モネはマネを尊敬し続けていた。ヴェトゥイユに2家族が住める程の大きな家を借りて、モネは周辺を写生して回った。モネ一家がアリス一家と共同生活を始めたのは、産後、カミーユの体調が悪く、赤ちゃんの面倒を十分見られないために困っていると、アリスも子供が出来たばかりで、モネの次男のミッシェルも自分の子供と一緒に面倒を見てくれる事になったからだった。またカミーユの看病もしてくれる事になり、これで、モネは絵を描くために外に出られるようになった。アリスの申し出による2家族の共同生活はモネにとって願ったり適ったりだったのだ。だが、生活は苦しくなる一方で、アリスの娘4人と息子2人、それにモネの息子2人に病気のカミーユを抱え、ほぼ、一文無し状態になってしまう。おそらく借金で乗り切ったのではないかと思われる。金を無心される度にお金を貸していたマネ達だが、それで縁が切れる事もなく付き合いは続いていく。これはモネの人柄によるところが大きいのだろう。モネは、借金はするが、人を裏切ったりはしない。子供達を大勢抱えてモネが苦しいのは友人達も良く分かっているので、できるだけの援助はしてくれた。
 1879年、4月に第4回印象派展が開催され、モネは描き溜めた29点の作品を出品する。この年の9月、闘病生活を続けていた妻のカミーユが32歳の若さでこの世を去る。死因はガンだったと言われている。死期が近づいている事を察知したアリスは、モネが、カトリック教徒でありながら司祭立ち合いによる結婚式を上げていない事から、教会の司祭に家に来てもらい、モネとカミーユの結婚の儀式を行い神に報告した。9月5日にカミーユは息を引き取る。その姿をモネは絵画に残している。カミーユの死でのモネの落ち込み様は見るに忍びない程だったという。どん底の状態で妻を無くした悲しみと懺悔は筆舌に尽くし難いものがあっただろう。お金にできる物は全て質屋に入れてしまっており、カミーユの唯一のペンダントも質草となっていた。葬儀の際に、そのペンダントをカミーユの首にかけてあげたいからと、コレクターの医師ド・ペリオ氏に質屋から出して欲しいとお願いしている。モネにはペンダントを質から出す金もなかったのだ。妻を無くし2人の子供を連れてどう生きていくのか途方に暮れるモネだったが、アリスが、モネの子供の面倒を見ると申し出てくれた。次男のミッシェルは、手のかかる1歳児で、乳母を雇う金も無い。アリスの申し出は、モネにとって本当にありがたい申し出だった。モネの2人の息子は自分の子供と一緒にアリスが面倒を見てくれる事になった。貧乏のどん底とはいえ、絵を描く時間は確保できる。借金まみれになりながら、モネは、冬の屋外へ画材を持って出かけて行った。カミーユの死がモネの心にくさびのように突き刺さる。懺悔、後悔、自分の画家としての不甲斐なさを責め続ける。それでも絵筆を走らせる手は止めるわけにはいかない。自分の腕には、まだ、8名もの子供の命がかかっているのだ。感傷すら許されないような状況が続いていた。極寒のヴェトゥイユで凍てつくセーヌ河を毛布にくるまって震えながら写生するモネの姿は鬼気迫るものがあったと言われる。
 1880年、4月に第5回印象派展が開催されたが、モネは印象派展への参加を見合わせた。この年の、5月、モネは、10年ぶりにサロンに出品し、風景画1点が入選している。サロンへの応募は、お金のためだと説明していたが、これは本当だろう。サロンに入選した絵画は高値で売れた。また、サロン出品を勧めていたマネの影響もあったのだろう。6月、印象派展に出品しない代わり、ルノワールが紹介してくれた画廊で個展を開催した。冬のセーヌ河の風景が観る者の心を打ち、この個展は評判となる。カミーユの死によって、ずたずたに引き裂かれた心を引きずり、血飛沫が飛び散るようにして描いた凍てつくセーヌ河の風景だった。カミーユの死が、モネがもがいていた壁を越える切っ掛けとなったのだ。画家と言うのは何と因果な職業なのだろうかとつくづく思う。死ぬ程の苦しみを味あわないと神は微笑んではくれない

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