mixiユーザー(id:5462733)

2015年02月06日10:13

264 view

関西のテレビって、2.6.015

5日、ハイヒールのはてな?は、結婚式。日本では平安時代まで通い婚が一般的だった。妻は夫がやってくるのを待つだけ。鎌倉時代から妻が嫁入りするようになり、夫の家で同居するようになる。社会においても結婚においても男女平等を基本とするようになるのは、何と戦後、新憲法ができてからの話しだ。この憲法はアメリカが作成したものだが、そのアメリカでも男女平等は実現しておらず、憲法原案を作成したアメリカ人女性が自分の理想を込めた憲法だったと言う話しだ。新憲法は、戦争を放棄した9条ばかりが注目されるが、男女平等の精神こそがこの憲法の胆となる部分ではないかと思われる。当時の日本人には男女平等の考え方はなく、アメリカ人が憲法を作成しなかったら男女平等は憲法に盛り込まれなかった可能性がある。制度上、また、社会的に、女性が低い立場に置かれていたのは事実で、女性差別は存在した。しかし、日本は、母系社会の側面も内存していて、制度的には男尊女卑でありながら家庭内で女性が男性の言い成りだったとも言えない状況が現実にあったようだ。江戸時代の研究が進み、結婚にしても離婚にしても、男性優位は表面的なもので、実情はそう単純ではない事が分かってきている。三行半で夫が妻を勝手に離婚できる、と言うイメージも間違いだったようだ。実際そんな事を勝手にやれば、妻側の実家も黙っておらず、家同士の争い事に発展しかねない訳で、夫側から勝手に離婚などできなかった、と言うのが本当の所のようだ。仇討ちも、家同士の抗争を避ける意味があって、争い事は個人の争いで止める狙いがあった。そのため、仇討ちの仇討ちは御法度とされた。仇討ちで殺されても、その家族は仕返しをできなかったのだ。離婚も、双方の家が納得するようにじっくりと話し合われ、双方合意した時点で離婚が成立したと言うのが実情だった。離婚された妻が、仲間を大勢引き連れて、再婚した元夫の家を襲って、家の中をめちゃくちゃに壊して帰ると言う後妻討ちも認められていた。江戸時代までの日本の結婚制度は、実際、ゆるゆるだったようで、妻側の浮気もさほど珍しくはなかった。妻の貞操観念は強くはなく、子供も夫の子供ではない場合があって、それでも妻の産んだ子供は我が子として育てるのが普通だったようだ。子供は授かり物として社会全体で育てていくような考え方が支配的だった。制度的には父系制度だが、実質母系的社会は維持されていたとも考えられる。江戸時代までの日本は、実際に性に対しては寛容な社会だったようだ。夜ばいも、江戸時代までは行なわれていた。貞操な妻のイメージは、明治時代、キリスト教社会である西洋と付き合う必要があるため、政府が日本の古い社会風習を根本的に変えようとしてキャンペーンを張った結果作られたものだ。明治維新は、想像以上の大革命だった。言葉もそうで、それまで日本には方言だけしかなかったのだが、共通の言葉まで新たに作り出されている。今で言う標準語は、明治時代に人工的に作られた言語なのだ。現代の社会通念では考えられないような風習が、江戸時代には存在していた。いかにも男尊女卑で、結婚でも女性は男性のいいなりになっており、三行半で、女性は簡単に離婚させられる。そんなイメージが時代劇等を通じて作られているが、それが間違いだった事が、江戸時代の資料を研究して明らかになってきている。日本の結婚式の定番スタイルも、実際には非常に歴史が浅く、仏教徒なのにチャペルで平気で結婚式を上げるような感覚を日本人は持っている。ウエディングケーキもそうで、ちゃんと意味があるにも関わらず、とにかく高い方がいい、と言う話しになってしまっている。これは、芸能人の結婚式からの影響だそうだ。テレビで結婚式が放映され、その演出に感化されて日本の結婚式が変化していったのだとか。神前結婚式すら、歴史的なものではなく、1900年に行なわれた後の大正天皇の結婚式が最初だそうだ。それまでは神前結婚式は存在しなかった。それまで日本では家で結婚式を上げるのが一般的だったのだ。外の施設での結婚式の歴史そのものが、さほど古くはないので、チャペルでの結婚式も平気なのだろうが、チャペルでの結婚式も、キリスト教徒は別にして、一般化したのは、ダイアナ妃の結婚式の影響だとか。ほとんどが女性側の憬れで、男性はただただ従うだけなのかも知れない。妻の幸福は夫の幸福、そう信じて男達は日々がんばっている。それが、男性社会日本の実情だろう。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年02月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728