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2012年07月25日04:56

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坂野信彦歌集『まほら』

1991年、邑書林刊。

 うろろやみうろらくらやみみどろなる黴ほのぼのとめざめつつあり

 しろがねのつきのひかりのゆりかごのみどりごのまほらなす頭蓋骨

 ゆらゆらにゆられゆりかご海ふかくゆりゆらゆらりゆれしづみゆく

 まほらやみまやみのやみのしただりの岩づたひつつしたたりやまず

 ぬばたまのまつくらやみのわたつうみのうねりのたうちくるふあらなみ

 へうへうとうかびただよひゆくあてもなくはてもなくながれうつろひ

・・・というような歌が146首並んでいる歌集である。1頁に1首。全篇、奥付なども含めて、黒インクではなく濃紫のインクによる印刷。目次なし。つまり、章立てや小見出しなどというものはなし、という体裁だ。

ほとんどの歌がひらがな。ワン・ポイント、あるいはツー・ポイントぐらいの感じで漢字が入る歌もある。上記1首目の「黴」、3首目の「海」、4首目の「岩」は、漢字が効いているが、2首目の「頭蓋骨」はひらがなにしてしまっても「頭蓋骨」の意味性は埋もれないので、すべてひらがながきにしても良かったのではないか、と思う。

 しろがねのつきのひかりのゆりかごのみどりごのまほらなすづがいこつ

どうだろう。「づがいこつ」の方が、なんとはなしにおそろしげな感じが増して、いいのではないだろうか。

今月(2012.7)の「短歌人」の時評欄で、西村美佐子さんがこの歌集およびこの歌集に先行して刊行された理論篇とも言うべき坂野の『深層短歌宣言』(1990年、邑書林)について書かれている。発表当時、特に『深層短歌宣言』は大いに注目され、諸々の議論を巻き起こしたらしい。十年ひと昔という伝で言えば、ふた昔ほど前のことである。今、短歌について語る時に坂野の名が引かれることはもはやあまりないのではないだろうか。さまざまなテーマ、さまざまな話題が、その時、その時によって“消費”され、しばらくすれば忘れられてしまう。ああ、そんな話もあったね、という昔語りになる。短歌についての議論は、そんなことでいいのだろうか。いや、いいはずがないだろう、と短歌の世界を離れた坂野は、今もひそかに思っているに違いない。

『深層短歌宣言』については、2010年4月23日の日記(坂野信彦『深層短歌宣言』を読む)[※]および2011年4月7日・8日の日記(「韻律試論」その4&5)[※※]をあわせてご参照ください。
[※] http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1469364532&owner_id=20556102
[※※] http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1702612287&owner_id=20556102
     http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1703091263&owner_id=20556102

坂野の問題提起が、今なお色褪せない理由は、彼が良くも悪くもある種の極論を述べたからであろうと思う。すなわち、短歌にとって「意味」はほとんどどうでもよい、大事なのは「律」である、したがって、ほとんど「意味」を持たず、「律」だけが感じられるような歌、すなわち「深層短歌」こそわれらの目指すべきものである、というのが彼の主張だった。

そんなこと言ったってさあ・・・、と反論することはたやすい。上記の僕の古文書みたいな文章も、そういう反論を含めて彼の説について記したものだった。が、その種の反論によって坂野の問題提起は乗り越えられてしまって、もはや価値を持たないものになってしまったかと言うと、そういう片付け方はできないのではないか、という気がする。

それもこれも、すべては、彼の説が「意味」と「律」とを“あれかこれか”のように扱い、あたしゃあなんたって「律」だね、と宣言してしまう、という至極単純な極論であったことに由来するのではないだろうか。それゆえに、彼の提示した“問いと答え”は、短歌について考える時のひとつの道標のような役割を果たし続けているのではないか、と思う。

この『まほら』を読んでいて、ピアノのおけいこで誰もがお世話になるハノンの教本を思い出した。鑑賞されるべき楽曲ではなく、ひたすら指のトレーニングのために単純な上昇・下降旋律を繰り返し弾く練習曲集である。どの曲も似たような作りで、この教本の全曲を聴く、などというのは何とも退屈きわまりないことに違いないのだが、ピアニストにとって、この教本中の2、3曲を1日の始めに先ず弾いてみる、というのは、あるひとつの世界への入り口に自分を立たせるために、有意義なことなのではないか、と思う。

同様にして、歌を詠む者は、毎朝、目が覚めたら、先ずこの『まほら』を開き、任意の2、3首をゆっくりと音読する。それによって自らの内に所蔵されている韻律感をスタンバイの状態に置く。そんなふうに“使う”ことができる歌集でもあるのではないか。そんなふうに思ったのだった。


【最近の日記】

7月24日:やはり事後報告はなかった。

7月22日:第11回短歌人ネット歌会[友人まで公開]

7月21日:「ジセダイタンカ」の三人

7月19日:生沼義朗歌集『関係について』

7月17日:近藤かすみ歌集『雲ケ畑まで』
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