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2012年06月08日10:38

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「短歌人」の誌面より(43)

2012年6月号より。

花吹雪浴びながら立つバス停が一番遠い惑星となる    守谷茂泰

・・・ウチのすぐそばの「汐入4丁目」のバス停ではこうはいかない。想像するに、2〜3時間に1本、乗客の少ない小型のバスがやってくるような所だろう。そんな路線であっても駅に繋がっていたり、地域の中心地に繋がっているものとしてバス停というものはある。その駅もまた淋しい小駅かも知れないが、その小駅もまた線路は続いて大都会へ繋がっている。太陽から一番遠い惑星といえども太陽との関係で存在しているように、花吹雪を浴びながらバスを待っているようなバス停も、中心との関係で存在していて、バスを待つひともまたその関係の中にいる。こんなところにも花の季節の小さなはなやぎがある。守谷さんは寡作な方で、今月号も3首掲載だが、歌ってものはたくさん詠めばいいってものじゃないんだよなあ、と彼の作品を読むたびに思う。

(ああこれは)小首をかしげてためらって口を噤んだ(キスする構図)    魚住めぐむ

・・・めぐむさん、とばしてます!わーい(嬉しい顔) 「小首をかしげてためらって口を噤んだ」というセンテンスと、「ああこれはキスする構図」というセンテンスが、(  )を使ってうまく組み合わされている。もしこの歌をステージ上で朗読するのだったら、初句と結句の(  )内は囁くような声で、「小首を・・・」は声音を変えて、やはりやや低めの声で・・・、または(  )内と「小首を・・・」は別の読み手で・・・、というのがいいだろう。(  )をうまく使うと一首の中に複数の声、複数の「われ」を響かせることができる。それにしても今回のめぐむさんの一連8首のうち、このような(  )を使った歌が4首。あまり(  )を多用すると鼻につく・・・、と普通なら言いたくなるところだが、そうは言わせない勢いのある一連だ。ためらいながらも性愛へ身を委ねてゆく若い女性の歌である。

ひらくひらく連打したのに羽賀さんをおいて上昇するエレベーター    鈴木杏龍

・・・作者の鈴木杏龍さんは、ちょっとお洒落にシースルーエレベーターを詠んでみました、みたいなことはやらない方らしい。そういうところが大いに気に入りました。うまい! 「ひらく」は実際の表示は「開」、またはドアが開くイラストだろうが、ああ、羽賀さんが駆けてくるよ、まだ閉めちゃだめだ・・・、とあのボタンを連打する時に、こころの中では「ひらく、ひらく」と唱えている・・・、よね。うん、たしかにそうだ、と納得する。それなのに羽賀さんは置き去りにされました、とさ。ユーモラスな一首である。これは職場のエレベーター、羽賀さんというのは先輩の中年男性に違いない、と思えてくるから不思議だ。次の歌は《逆光のなかで社長が大仏のごとく売上目標を言う》。

無伴奏でいきますと言ふ雲が言ふ探し物して見上げしときに    阿部久美

・・・だいじな“あれ”が行方不明になってしまった、ハテ、何処へ置いたのだったろう・・・、と必死に探しているようなシーンが映画かテレビドラマであったとしたら、切迫感、焦燥感を感じさせるような音楽を付けるのが定石だろう。しかるに見上げた空にはぷかりぷかりと雲が呑気に浮かんでいて、無伴奏でいきますよ、と言っている。「言ふ」のリフレインも、この歌の場合はのどかな感じになる。そうか、そうか、探し物といってもそうたいしたものじゃあないんだね、まあゆっくり探しましょうやというわけだね、と得心する。今月号の「三角點」で紺野裕子さんが阿部さんの歌について書かれていた。「阿部さんの歌は旧かなを用いながら文脈は話し言葉である。力が抜けていて、全的な受容をみせながら、奇妙なずれがあり明るく孤独である。歌の呼吸がゆったりとしていて深い」。なるほど、なるほど・・・。僕は今まで阿部さんのお名前は特に意識していなかったのだが、これからは、毎月の「短歌人」が届いたら先ず目を通す何人かの方々の中に入りそうだ。この歌のひとつ前の歌は《歩きたくなるやうな道きざみたくなるやうな葱ぜんぶに春来》。この歌の次は《車庫入れのみごと定まりあまつさへ晴天であり如何にぞや、春》。

胎教というにあらねどさまざまな土地の国歌をくちずさみやる    中井守恵

・・・「胎教」8首の7首目。《怖いものひとつずつ減りいまはただ子を産むことをすこし畏れる》(「短歌人」2010年6月号)と詠んでいた守恵さんが、先月号から胎内の赤ちゃんの歌を詠まれている。2年前の歌の結句は、もとより「恐れる」ではなく「畏れる」である。胎教というにあらねどと言われているけれども、結果的にはこれは胎教でありましょう。ウインク 何の気なしにふと口ずさんだ歌がおのずと伝わる、というぐらいがちょうどよろしい。それにしても「さまざまな土地の国歌」(「国の」ではなく「土地の」である)というのがユニークだ。守恵さんは日頃から世界の国歌を集めたCDか何かを愛聴されているのだろうか。《湯の中にからだ沈めてぬばたまのアイルランドの国歌をうたう》(2011年10月号)という歌もあった。全員起立して君が代を斉唱しなければ他国の国歌に対する畏敬の念も育たない、などと居丈高に言う必要はない。さまざまな土地の国歌をそれとなく口ずさんでいる。いいではないか。そう言えば、神奈川県民の歌とか群馬県民の歌とかいうのもある。宮城県民の歌もあるのだろうか。長野県民の歌が何と言っても有名だが・・・。

三月前息子の家から帰り来し靴が無言で玄関にあり    杉山春代

・・・小説の一節のようなシーンをうまく一首におさめた歌だ。息子は独立して別の所にいる。頻繁に行き来するような習慣もない。この間息子を訪ねたのは、もう三ヶ月前である。それ以来、遠くには出かけていないので、その時の靴がそのまま玄関にある。あの時、息子とはちょっと口喧嘩をしてしまった。だからわが靴も息子のことを親しんで回想したりはしていなくて、無言である。イラストにしたら、玄関に置かれた靴を描いて、そこに「・・・・・・」という吹き出しが付きそうだ。次の歌は、《「元気か」とけふ息子より電話くる気まづく別れ三ヶ月たち》。三ヶ月間固まっていた空気が、またほわんと動き出す気配である。

久方振り泣くといふ木に逢ひに来たりぬ 隣木斃れゐき    和嶋忠治

・・・木も時に泣く。隣の木が斃れたら、それはもう悲しくて泣いてしまうことだろう。和嶋さんはその泣き声が聞こえ、木の気持ちが伝わるお方らしい。この歌、字足らずといえば字足らずなのだが、僕は「ひさかたぶり/なくといふきに/あひにきたりぬ/・・・・・・・/りんぼくたおれゐき」と読んだ。第4句は全休止符である。普通の一字アケにフェルマータが付いていると思って、「来たりぬ」の後にたっぷりと静寂の時間をとったうえで、「隣木斃れゐき」はゆっくりと沈み込むようなトーンで音読するのが良いだろう。

(つづく)

【最近の日記】

6月5日:「花笑み」7号
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6月3日:『「臨床心理学」という近代』(その2)
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