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2020年08月02日08:29

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愛知県刈谷市山の神遺跡FIN 稲束を担いだ神

御霊神社(ごりょうじんじゃ)の拝殿の右手に白地に「豊川荼枳尼眞天」と朱文字のプリントされた幟が立ち並んだ参道があった(写真左)。

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入り口には参道をまたいだ朱と黒を組み合わせた
八幡鳥居が設置されている。
奥には社が見えている。
鳥居をくぐって参道を進むと、社の祀られている土壇の上に上がるための
スロープが設けられていた。
通常なら石段を設けるところだが、なだらかなスロープにして、
その表面に、足が滑りにくいよう、欠き割った同じ幅の石を並べてあり、
洒落た処理がされていた(写真中)。
そのスロープを上がると、社は石祠であることが判った。

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昨年年末から知多半島と刈谷市を巡っていて、
豊川稲荷系の稲荷社に遭遇したのは初めてだ。
荼枳尼眞天(ダキニシンテン:図版右)はヒンドゥー教では
人肉を食べる夜叉の集団とされていたのが、
仏教では大黒天(摩訶迦羅マカカラ)に属する夜叉とされ、
さらに日本に伝わってから天部の尊格にアレンジされた。
インドでは天部の神々は釈迦時代以前から奉られてきたというのだが、
その多くは多民族の土地であるインドの各民族の神々であり、
女神でさえ戦士の衣装を身に付けた戦闘神が多いのだが、
荼枳尼天も鎧兜を身に付けているようにも見えるのだが、
持物は武具ではなく、DNAという意味深な♾を連ねた天秤棒に
稲を振り分けにして担ぎ、
新解釈すれば、作物豊穣のため、稲の遺伝子操作までを担う
守護尊であることを暗示している。
仏教文化として列島に導入された夜叉は
在来の狐神信仰(稲荷信仰)と習合し、福神として流布された。
それにともない、その姿は白狐に乗る天女の姿で表されるようになり、
持物も夜叉時代の持物だった人の手足から、剣、宝珠、鎌などに変わり、
さらに稲束を担ぐ、大サービス姿に変身するに至った。
しかし、荼枳尼天で興味を惹かれるのは
オリジナルの人肉を食べる夜叉集団の方で、
人類を食料と労働力確保のためにDNA操作で生み出した
アヌンナキとの繋がりだ。
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